プリンス・オブ・ウェールズとはもともと、ウェールズの統治者の中で大きな支配力を及ぼした統治者が宣言し、イングランド王に地位を認めさせたタイトルです。
13世紀のウェールズでは、プリンス・オブ・ウェールズを宣言した統治者が初めて登場しました。
プリンス・オブ・ウェールズ率いるウェールズが、イングランドを征服したノルマン人(ノルマン朝イングランド)との戦いを繰り広げた、11世紀後半~13世紀末までの時代について、お話しいたします。
※時代の区切りや呼び方は筆者が独自に表現しているものです
- 中世ウェールズの黄金期
- オウァイン大王の失敗
- ウェールズに希望の星が登場
- 希望の星と脅威との争い
- 希望の星、大王になる
- 再び後継問題で乱れた大王
- ウェールズ最後の砦
- まとめ:この時代の年表
- プリンス・オブ・ウェールズの行方
中世ウェールズの黄金期
12世紀のウェールズは、グリフィズ・アプ・コナンがグウィネズの統治を巡る内乱を終わらせ(南北朝時代)、さらにノルマン人イングランドの侵略を防ぎ、新たなウェールズの歴史を始めたんだ。(前回の内容)
※参考に👉<改訂版>第5章 興味深い!中世ウェールズはまるで南北朝+戦国+下剋上のようです
これまで、ウェールズの平和がしばらく続いたのは、ロドリ大王、ハウェル・ザ・グッドくらいと、数えるほどしかないんですよね。今回のグリフィズ時代の平和は、どのくらい続いたのですか?
グリフィズはグウィネズの統治者を56年ほど務めた(ノルマン朝・イングランドから国を取り戻してから約35年)。さらに息子の時代も含めてウェールズは比較的平和で、黄金期と言われる時代となった。
グリフィズの後は、息子のオウァイン・アプ・グリフィズ(Owain ap Gruffydd)が後継した。オウァインは軍事にも力を注ぎ、父から譲り受けたグウィネズにとどまらず影響力を広げて、ウェールズ南東部を除くほぼ全域に支配力を及ぼした。
オウァインは、同盟関係にあったデハイバースの統治者アナラウドが、自分の弟に殺されたと知ると、即座に軍を送り弟を追放してデハイバースを占領し、グウィネズに統合して領土を広げた。
ウェールズの北部から南西部まで支配をしたオウァインは、今度はウェールズの東方面に勢力を伸ばそうとした。
ウェールズの東部はイングランドと国境をなして、常にイングランドの侵略にさらされていた。
しかし、1135年にイングランド王ヘンリー1世が亡くなると、ヘンリー1世の甥スティーブンと娘マティルダとの後継争いが勃発して、イングランド自体が内乱状態となった。
オウァインはその隙をついて、イングランドに侵略を許した土地を取り戻すだけでなく、ウェールズ国境を東に広げて行った。
当然、イングランドもずっと黙っているはずはなかった。内乱が終わったイングランドでは、1154年にヘンリー1世の息子、ヘンリー2世がイングランド王となった。ヘンリー2世は勢いを増していたオウァインを叩こうと、何度もウェールズに侵略をしかけてきたのだ。
ヘンリー2世はイングランドだけでなくフランスの大部分も所有し、巨大な勢力を誇っていた(アンジュー帝国と言われた)。
※参考👉名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景
1157年、ヘンリー2世は自らイングランド大軍を率いてウェールズに攻め入った。各地を破壊していくイングランド軍に対しオウァイン軍は、じっと山林で待ち伏せをして時機を待っていた。
イングランド軍が、身動きが取りにくい狭い場所を通りががった時に、オウァインはここぞ!とイングランド軍に襲い掛かった。
不意を突かれたイングランド軍は総崩れになり、ヘンリー2世も危うく捕虜になる危機に直面し、命からがら逃げ帰った。
この敗戦の屈辱を晴らそうと、諦めないヘンリー2世は、1165年に再びウェールズに攻め込んだ。これに対し、オウァインはウェールズ中の統治者の協力を得た連合軍を形成して応戦した。
この動きを見て、今度はヘンリー2世のイングランド軍が奇襲作戦に出た。しかし、オウァイン連合軍に見つかり撃退され、更に豪雨にも遭遇したイングランド軍は、散り散りになり逃げ帰ってしまった。
これらの敗戦に懲りたヘンリー2世は、その後は二度とウェールズに攻撃をすることはなかった。
イングランドのヘンリー2世を、2度も打ち負かすとは凄い!オウァインはウェールズの英雄ですね。
オウァインは国の名前が付いた、オウァイン・グウィネズ(Owain Gwynedd)やオウァイン大王(オウァイン・ザ・グレート、Owain the Great)と呼ばれたんだ。
オウァインは自らをプリンス・オブ・グウィネズ(Prince of Gwynedd)と呼び、これがプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)のスタイルの始まりとなったんだ。
ウェールズの危機を救った父グリフィズと、イングランドを打ち破ったオウァインの活躍により、2人の統治時代を合わせると約70年ほどになるんだ。
その間は中世ウェールズの黄金時代であり、ウェールズの統一と独立を確保した時代だったんだよ。
オウァイン大王の失敗
オウァインは中世ウェールズの英雄だったけど、「英雄好色」というように、オウァインも女性が大好きだったようだ。
分かっているだけで妻と妾は最低6人以上、子供は男子は18人以上、女子は4名以上いたと言われるんだ。中世ウェールズの統治者の子だくさんは、問題を引き起こす事もあったんだ。オウァインの場合、ウェールズを危機に陥れてしまうんだよ。
「全体の統治者は1人であるが、正室、側室、妾の子に関わらず全ての息子には、均等に分けた財産を相続する権利がある」というのが、当時のウェールズ法である。
子供に男子が多くいると、それぞれが相続する分も少なくなってしまう。相続争いが起きかねない状況だ。
オウァインの場合は、溺愛した長男は戦死してしまったので、片腕として活躍した次男ハウェル(Hywel)を後継者に指名し、財産は多くの兄弟で相続する事になった。
※ウェールズ法について👉中世ヨーロッパで最も進化した法律 ウェールズ法はどんな内容なのか
オウァインが1170年に亡くなると、ハウェルがグウィネズを後継して統治者となった。
ところが、これらを喜ばしく思わない人物がいた。オウァインの妾(側室)である。
その妾とはオウァインの従妹クリスティン(Cristin)であった。ウェールズ教会では従妹との結婚は禁止していたが、オウァインは破門されてまでも結婚していたのだ。
後継となっていたハウェルから統治者の地位を奪い取ろうと、クリスティンが産んだ3人の息子が反逆を起こしたのだ。ハウェルを殺し、六男のダヴィッズ(Dafydd)が統治者の座を奪ってしまった。
一説によると、オウァインが生きている時からクリスティンが狙って準備をしていた、とも言われている。
👉日本の子だくさん将軍、ウェールズの子だくさん王(オウァイン)
恐ろしいですね。さらに争いが続きそうですけど、後継争いは収拾したんですか?
実はこれからが、ウェールズ王室始まって以来の地獄となったんだ。
さらに、統治者となったダヴィッズは恐ろしい手段に出た。
1170年 半兄ハウェル(Hywel)を殺害
1173年 半兄マエルグゥイン(Maelgwin)を国外追放
1174年 マエルグゥインを投獄(獄死)
1174年 実弟ロドリ(Rhodri)を投獄
1174年 半兄イオルウェルス(Iorwerth)戦死(ダヴィッズの指金か)
1174年 実弟コナン(Cynan)没(暗殺か)
ダヴィッズは弟たちの遺産をも狙ったのだろうか。それとも、今度は自分も狙われると思ったのだろうか。ダヴィッズは残った兄弟たちを、殺すか投獄するかの残忍な行為におよび、父オウァインの領土や遺産を独り占めしたのであった。
ダヴィッズはウェールズ史上でも類を見ないほど、身内を殺害しまくった極悪の人物となった。
更にダヴィッズは自分の身を守るのと地位を固めるために、1174年にイングランド王ヘンリー2世の妹エンメと結婚したのだ。
恐らくイングランドの力をバックに利用して、皆を黙らせたんですね。何とも卑怯な奴だなあ。グウィネズやウェールズ内で、ダヴィッズを倒そうと内乱は起きなかったのですか?
※ダヴィッズに関する記事
ウェールズに希望の星が登場
そこに一筋の光が差し込んできたんだ。それは人々の唯一の希望でもあった。極悪非道を続けたダヴィッズの打倒計画があり、ウェールズの人々が注目したのは、オウァイン大王の孫だよ。
そうか、孫が残っていたんだ!
ウェールズの人々が注目したのは、ラウェリン(Lywelyn)、グリフィズ(Gruffydd)、マレディズ(Maredudd)の3人の孫であった。特にラウェリンは、オウァイン大王と正妻の間に生まれた三男イウォルウェルスの息子で、正当なる後継の権利を持っていた。
三人はラウェリンを中心に密かに打倒ダヴィッズの準備を始め、機会をうかがった。グウィネズの人々も、教会もラウェリンたちを支持し、皆がダヴィッズを倒す事を待ち望んだ。
チャンスを待つこと6年。1194年、ラウェリンら3人は協力してダヴィッズに戦いを挑み、両軍は現在の北ウェールズにあるアバコンウィー(Aberconwy)で激突した。
勢いに勝るラウェリン軍はダヴィッズ軍を打ち負かし、ダヴィッズを捕らえて投獄したんだ。
やりましたね。これで少しはグウィネズの人々も安心ですね。
ラウェリンはようやくグウィネズの統治者になったんだが、周りには手強い敵がいたんだよ。ラウェリンもグウィネズの人々も気が休まらないよなあ。
希望の星と脅威との争い
まずライバルとして現れたのが、ウェールズ内の隣国ポウィスの統治者、グウェンウィンウィン(Gwenwynwyn)だ。
ウェールズに領土を持つイングランド公爵たちを追い払い、ウェールズのリーダーになろうと狙っており、勢力を伸ばすラウェリンが気に入らなかったんだ。
そしてついに、1202年にラウェリンとグウェンウィンウィンの間で戦争が勃発した。この時はラウェリンが勝利し、ラウェリンはウェールズのリーダー的な統治者となった。
ラウェリンにとってグウェンウィンウィン以上の脅威は、イングランドであった。ラウェリンの時代のイングランド王は、ヘンリー2世の息子ジョン王であった。
このジョン王およびグウェンウィンウィンとの関係に 、ラウェリンは悩まされ続けるのである。
まず、ウェールズの平和を守るために、ラウェリンはイングランドとの親しい関係を作ろうとした。
ラウェリンはジョン王に忠誠を誓うだけでなく、ジョン王の娘ジョアンと結婚したのだ。イングランドとの争いを避け関係を良くするだけでなく、ラウェリンの地位を固めることも目的だったのだろう。
さらにラウェリンは、国境付近で争っていたイングランド伯爵ウィリアム・デ・ブロース(William de Braose)とも同盟を結んで、平和的に解決しようと考えた。しかし、この同盟がいけなかった。
その頃、ジョン王はウィリアム公爵と対立状態にあり、ラウェリンとウィリアム公爵の同盟に激怒したのだ。
ジョン王は、かつてラウェリンに敗れ去ったグウェンウィンウィンと同盟を結び、ラウェリンに攻撃を仕掛けてきた。この動きを見て、ウェールズ各地の統治者たちもジョン王側についてしまったのだ。
ラウェリン、孤立状態になって大ピンチじゃないですか。さすがのラウェリンでも、これはお手上げでしょ。
1212年、多数のウェールズ軍を率いたジョン王に対しラウェリンは完敗し、所有していた殆んどの領土を没収されてしまったんだ。
ウェールズの同胞からも裏切られてしまっては、ラウェリンも万事休すですね。
希望の星、大王になる
ところが、ジョン王は稀代まれなる悪王。無駄な戦いばかり起こし、そのたびに課せられる重い税金。ジョン王に味方した諸侯や統治者たちからは、次第に不満の声が上がったんだ。
これは、ラウェリンにとって復活の助けとなるのでしょうか。
一時はジョン王に味方したものの、ウェールズの統治者たちはジョン王を見限り、再びラウェリンに味方するようになった。その中には、グウェンウィンウィンも含まれていた。
さらに、ジョン王に不満を持つイングランドの諸侯たちも、ラウェリンを支持するようになった。
失政続きだったジョン王に対して、ついにイングランドやウェールズの貴族や国民たちの不満が爆発し、今度はジョン王は廃位のピンチに立たされたのである。
1215年、ジョン王は事態を収めるためにやむを得ず、国王の権限を減らした民主的な内容である、マグナカルタを制定した。
ジョン王によって奪われたウェールズの領土はラウェリンに戻り、統治権も認められた。人質として連れ去られていた長男グリフィズを含む人たちも返ってきた。
よかった。これで元に戻りましたね。ラウェリン、よかったですね〜
しかし、ジョン王はこのまま黙ってはいなかったんだよ。しぶといジョン王は、再びグウェンウィンウィンと同盟を結び、ラウェリンに攻撃を仕掛けてきたんだ。でもここまでだったよ。
ジョン王は、翌年フランスの支援を受けたイングランド貴族たちとの戦いの最中に赤痢で病死したのである。また、グウェンウィンウィンも時を同じく亡くなった。
1216年、ラウェリンは勢力を増して本拠地グウィネズだけでなく、グウェンウィンウィンのポウィスも直接支配し、広範囲のウェールズを治めるようになった。
こうして、ラウェリンはラウェリン大王と呼ばれるようになり(Llywelyn the Great)、1240年に亡くなるまでウェールズの偉大な統治者として君臨したのである。
※ラウェリンは灰色と黄色の領土を治めた。グリーンの部分はイングランドの勢力範囲
ラウェリンとジョン王との関係のまとめ
1197年:ウェールズのリーダ的存在となる
1201年:イングランドのジョン王と同盟
1205年:ジョン王の娘ジョアンと結婚
1208年:ジョン王と対立したウェールズ首長のグウェンウィンウィンを破り領土拡大1210年:ジョン王と仲の悪いウィリアム卿と同盟
1210年:グウェンウィンウィンと仲直りしたジョン王に攻撃を受ける
1212年:ウェールズ諸侯を味方にしたジョン王に大敗し領土の大部分を失う。
1215年:ジョン王がマグナカルタを制定。奪われた領土と人質がラウェリンに返却
1216年:ジョン王、グウェンウィンウィンが亡くなり、ラウェリンがウェールズでの地位を確立する
1240年:ラウェリン没(1172年生まれ)
再び後継問題で乱れた大王
12世紀に活躍したラウェリンの祖父オウァイン大王は、子だくさんや教会から破門されるまでして従妹と結婚した結果、子供たちが骨肉の後継争いをしたよな。
実は、ラウェリン大王も後継者問題で大きく乱れたんだ。これがラウェリン大王の最大の汚点だと思うよ。
ラウェリン大王も、何かしでかしたのですか?!
ラウェリン大王には、長男のグリフィズ(Gruffydd)と次男のダヴィッズ(Dafydd)の2人の息子がいた。長男のグリフィズはウェールズ人の正妻との息子で、ウェールズ法ではグリフィズが後継者としての資格があった。
ところがラウェリン大王は、ウェールズ法では非嫡出子のダヴィッズを溺愛して後継者にしようと考えた。
実際にラウェリン大王は何度も人質としてグリフィズをイングランドに送り付け、その間にダヴィッズを後継者にしようと、強引にも手はずを整えたである。
・ローマ法皇ホノリウス三世に、ダヴィッズが後継者になれるように説得を続けた
・後継者は長男がなる、という当時のウェールズ法を一部を改定した。
・イングランド王ヘンリー3世を説得し、ダヴィッズの後継を認めさせようとした
・ウェールズの諸侯たちに圧力をかけ、ダヴィッズに忠誠を誓わせた
なぜここまでして、ラウェリン大王がダヴィッズを後継にしようと、考えたのでしょう。理由はあるのですか?
理由は2つ考えられるな。一つ目は、グリフィズは気性が激しく、ラウェリン大王も手を焼いていたようだ。ラウェリン大王が領土を分け与えると、グリフィズは圧政を繰り返し、不評を買っていたんだ。
もう一つの理由は、ダヴィッズは非嫡子(側室の子供)の扱いだけれど、母ジョアンはイングランドのジョン王の娘なんだ。イングランドとの良好な関係を築くためにも、ダヴィッズが後継者になった方が、ラウェリンにとっても都合が良かったかも知れないね。
あれこれと策略を巡らした甲斐あって、ついにラウェリンはダヴィッズが自分の後継者になることを、世に認めさせたのだ。
ウェールズの統治者となったダヴィッズは、偉大なタイトルを宣言しイングランドにも認めさせた。公式にダヴィッズは初代のプリンス・オブ・ウェールズになったのだ。
しかし、ラウェリン大王が1240年に亡くなると状況は変わってきた。本来のウェールズ法で正当な後継者であるグリフィズを支持する人々が立ち上がり、ダヴィッズに反乱を起こした。(イングランドにかぶれたダヴィッズに反対したのであろう)
兄弟間の争いが起こったのである。反乱軍に怒ったダヴィッズは、グリフィズの領土を攻撃して略奪をはたらき、領土を奪った。
この動きを見て、イングランドへ差し出された人質の身で、ロンドン塔に軟禁されてたグリフィズは反撃を企てた。ロンドン塔から脱出し反乱軍に加わろうと図ったのだ。
しかし、ロンドン塔から脱出する際に巨漢が仇となり、不運にも転落死してしまった。
※グリフィズの事故死の記事
この一連の動きをしたたかな目で見ていた人物がいた。イングランド王ヘンリー3世だである。一度はダヴィッズを支持したけど、態度を急変させたのである。
ヘンリー3世はダヴィッズの地位を認めたことを白紙にしただけでなく、ダヴィッズに攻撃を仕掛けてきのだ。ダヴィッズはヘンリー3世と反乱に対抗しようと挙兵するが、病気で急死してしまった。
ウェールズは、イングランドに攻められて混乱に陥り、さらに弱体化が進んでいくのであった。
じゃあ、ウェールズはどうなってしまうんですか? まさか、イングランドに乗っ取られてしまうんですか?
そこで、ウェールズ王室「最後の砦」が登場するんだよ。彼がダヴィッズの後を継いで、イングランドに対抗したんだ。
ウェールズ最後の砦
※ラウェリン・アプ・グリフィズ像
ウェールズにとっての「最後の砦」はラウェリン・アプ・グリフィズである。彼の事を人々は、「ラウェリン・ザ・ラスト」と呼んでいる。
ラウェリン・ザ・ラストはラウェリン大王に嫌われたグリフィズの息子で、1246年にダヴィッズの後を受けてグウィネズを後継した。
ラウェリンはウェールズの独立にこだわり、イングランド王ヘンリー3世への忠誠を拒否し、1257年に反対する兄弟を投獄して自分に従わせた。
隣国のポウィスやデハイバースに対しては武力を使って領土を奪い、ウェールズ諸侯たちに忠誠を誓わせ、ウェールズの大部分を支配下に置いた。
そして、1258年にヘンリー3世と協定を結び、プリンス・オブ・ウェールズを認めさせたのだ。
ラウェリン・ザ・ラスト!やりましたね!
しかし、ラウェリンのウェールズに対する愛国心は強かったと思われるが、ラウェリンはこれまでのウェールズ支配者とは異なり力づくで奪った権力であったため、ウェールズの諸侯たちに人望が無かったことが問題であった。
ヘンリー3世の後、1272年にエドワード1世がイングランド王になると、ラウェリンは窮地に立たされてしまう。
ラウェリンに領土を奪われたイングランドの公爵達が反撃を始め、多くのウェールズ諸侯達までもが、ラウェリンから寝返ってイングランドと平和協定を結んでしまうのである。
そして1277年にエドワード1世に攻撃され、孤立状態になったラウェリンは成す術べなく敗れた。イングランドに有利なアバコンウィー協定を結び、ラウェリンの領土は大幅に縮小されてしまったのである。
1277年以降、諸侯たちの多くはエドワード1世に味方し、ウェールズはイングランドに占領されたかの様になってしまった。
ラウェリンの立場も、ウェールズもドンドン劣勢になってますよね。イングランドに降伏してしまうのでしょうか?
ところが、イングランドの権力の押し付けや、ウェールズに不利なイングランド法を強要される様になり、イングランドに対してウェールズの人々から大きな反感が募っていったんだ。やはり、イングランドじゃなくウェールズの王に従おうってね。
そしてついに、イングランドに対してウェールズの戦いが起きたんだ。
ラウェリンの復活ですか!
1282年にラウェリンの弟ダヴィッズが起こした反乱は、ウェールズ中に広がりを見せた。これに乗るかのようにラウェリンも反乱に参加した。
しかし、準備不足と弱体化したウェールズ軍は、何れもイングランド軍に敗北してしまった。
ウェールズ独立にこだわっていたラウェリンではあるが、やむを得ずイングランドに降伏してエドワード1世と協定を結ぶことを計画した。
しかし、今度は弟ダヴィッズが、停戦を拒否して戦いを止めなかったのだ。
弟に引きずられるように、仕方なくラウェリンも戦いを続けた。
しかし、既に対抗する力を失っていたウェールズ軍ではイングランド軍には歯が立たなかった。
オレウィン橋の戦いでイングランド軍に敗れ、ラウェリンは川沿いで捕らえられ戦死してしまうのだ。
ダヴィッズはラウェリンのあとを継ぎ、戦い続けるがダヴィッズも捕らえられ処刑されてしまった。
オレウィン橋の戦いで捕らえられ殺されるラウェリン
この敗北により遂に、ウェールズは事実上イングランドの支配下に置かれてしまったんだ。
あああ、本当にウェールズは終わってしまったのですね。
1282年に、ウェールズ人によるウェールズ統治が終わったんだ。それもあって、ラウェリンは、ラウェリン・ザ・ラストと呼ばれているんだ。
※ダヴィッズはラウェリンの後を継ぐ形で、プリンス・オブ・ウェールズを宣言して戦いを続けたが、1283年に捕らえられて処刑された。
まとめ:この時代の年表
以下に、この時代の出来事を年表にまとめた
11世紀後半~12世紀前半:グリフィズ・アプ・コナンがイングランドからウェールズを奪回し独立を確保する
1137年:オウァイン・グウィネズが統治者となる。グリフィズの時代から約70年の黄金時代を形成する
1170年:オウァイン没。ダヴィッズがハウェルを殺害し統治者の座を奪い、兄弟を次々と殺害する
1194年:ラウェリン・アプ・イウォルワルスがダヴィッズを破り、統治者となる
1205年:ラウェリン、ジョン王の娘ジョアンと結婚
1210年:ラウェリン、ジョン王と決裂し、以後争いが続く
1215年:ジョン王がマグナカルタを制定。奪われた領土と人質がラウェリンに返還
1216年:ジョン王、宿敵グウェンウィンウィンが亡くなり、ラウェリンがウェールズでの地位を確立する
1240年:ラウェリン没し、非嫡子ダヴィッズが後継する。正統なグリフィズ派とダヴィッズ派とが対立する
1246年:ダヴィッズ没。グリフィズの息子、ラウェリン・アプ・グリフィズが後継する
1258年:ラウェリンはイングランド王ヘンリー3世と平和協定を結ぶ
1277年:ラウェリンはイングランドに有利なアバコンウィー協定を結び、勢力を縮小する
1282年:ラウェリンの弟ダヴィッズが、イングランドへ反乱を起こす。ラウェリンはオレウィン橋の戦いで戦死
1283年:ダヴィッズもイングランドに捕らえられ処刑
プリンス・オブ・ウェールズの行方
ウェールズ人による支配は終わってしまったのに、ウェールズの統治者の称号である、プリンス・オブ・ウェールズは現在まで続いてますよね。これは、何故ですか?
ラウェリンが戦死した時に、イングランド軍によってプリンス・オブ・ウェールズの王冠も奪われイングランドに持ち去られたんだ。
この出来事に、ウェールズ内では反乱が頻発した。イングランドはウェールズを抑えるために、エドワード1世は王子をウェールズのお城で産ませて、ウェールズの環境で育てた。
ウェールズで生まれ育ち、ウェールズ語を話す王子(後のエドワード2世)を、プリンス・オブ・ウェールズにして、ウェールズ人の反感を抑え込んだ。
以後、プリンス・オブ・ウェールズはイングランド王の皇太子が務める慣わしになったのである。
更に最後の反乱の後、エドワード1世はウェールズを監視するために北ウェールズにコンウィ城、ビューマリス城、カナーヴォン城、ハーレック城など強大な要塞城を築くんだ。
それもあって、ウェールズにはとても多くのお城が残っているんですね。
ウェールズでウェールズ人が作ったお城ではなく、イングランドが作ったお城が主だけどね。これら一連の城はアイアンリングとも呼ばれ、現在は世界遺産として登録されているよ。
お城に訪れたときに、これまで語ってきたウェールズの歴史を思い出していただけると、感慨深く楽しめると思うよ。
※エドワード2世が産まれたお城は、カナーヴォン城で、天空の城ラピュタの一場面のモデルとなっている。また、カナーヴォン城はチャールズ皇太子のプリンスオブウェールズ戴冠式にも使用された。
参考記事:
👉行ってみたいウェールズのお城・・アイアンリング!!
👉厳選:是非行きたいウェールズのお城22選!
次回へ続きます
<改訂版>第7章 英雄プリンス・オブ・ウェールズの逆襲! イングランドから独立をかけた戦い
つづく
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