僕らの生き方に活かせるウェールズの創始者の秘訣

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写真:BBCより 

 

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こんにちは、たなかあきらです。

世の中には時代を作った英雄にもかからわず、確固たる証拠が残っておらずスポットをまったく浴びていない偉人たちがいます。

ウェールズの歴史上にはそんなマイナーな偉人がたくさんいます。

 

現在のウェールズの原形となる国の創始者は?

5世紀初頭に活躍した、キネダ・アプ・エダン(Cunedda ap Edern)という人物です。キネダに関する情報は英語でも僅かしかなく、日本語ではほぼゼロです。

僕の10年に及ぶ調査の内容を、この記事に凝縮して紹介したいと思います。他を探してもない情報ですので、このブログでお楽しみください。

今回の内容は、僕らの生き方に活かせるウェールズの創始者の秘訣という視点でもまとめです。

 

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ウェールズの創始者の生い立ち

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キネダは382年ごろに現在のスコットランドのエジンバラ付近にあった、ブリタニアの小国であるマナウ・ゴドッディン(Manaw Gododdin、地図中ではGoutodin)で生まれました。

当時のブリタニアは数百年にわたるローマ帝国の支配下の終わり頃であり、ローマ軍の指導のもと辺境の警備についていました。

 

キネダも成長してからは祖父や父と同じように、北からやってくるピクト族やヴァイキング、アイルランドからやってくるスコット族の侵入を防ぐ戦いをしていました。

 

※キネダが外敵侵入の警備をしていたと考えられる、アントニヌスの城壁とハドリアヌス城壁付近

 

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このキネダ(Cunedda)の名前について簡単にお話しします。父はエダン(Edern)祖父はパダン(Padarn)と言い、いずれもローマ的な名前です。ところがこのキネダの名前はブリトン人に特有の名前となっており、Cuneは犬、ddaは良いという意味です。

キネダの時代になるとローマ色がだんだん薄れ、ブリトン人が自分の国をしょってたっていかなければならない時代へと移っていきます。その思いを込めて祖父や父はキネダという名前をつけたと思います。

※ブリトン人はウェールズ人の祖先でケルト系民族

 

猛将&知将キネダ

 

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その通りに、ローマ帝国自体が弱体化してブリタニアの支配が行き届かなくなり、ローマ帝国は自国を統治する権利を与えるようになりました。このためキネダも自分のマナウ・ゴドッディンを自治する任務にもついていました。

青い刺青をして武器を持った戦士の部族であるピクト族と常に戦い自国を守っていました。そのキネダの戦いぶりを見ると、かなりの猛将でありかつ知将であったと思います。

ピクト人 – Wikipedia

 

猛将キネダ

ピクト族やスコット族との闘い

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戦いにおいてキネダは相当などう猛さ、強いチャレンジ精神を持っていたようです。

・戦う姿はまるでライオンの様にどう猛で、恐れを知らず誰も抵抗できない
敵に対しては完全に壊滅するまで徹底的にやり込める

⇒やるときは集中して徹底的にやる

 

・危険が大きければ大きいほど敵が強ければ強いほど、それを打ち負かす楽しみがある
自分の運命の脅威が大きければ大きいほど乗り越える楽しみがある 

⇒何事も恐れずに勇気をもってチャレンジする

 

キネダは強力な要塞を作りピクト族やスコット族、ヴァイキングなどの攻撃をことごとく退けて壊滅に追い込み、猛者ぶりを世に広めていたと思います。

 

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※キネダが拠点の要塞を作ったインチケイス島

Inchkeith – Wikipedia

 

ブリタニア他国との争い

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キネダが活躍した時代の領土範囲をみると、大きく領土を広げたり狭めたりはしていません。恐らくブリタニアの国々の間では侵略戦争はせずに、ローマ帝国の影響力に従い外敵との戦いに従事していたものと思います。

当時はキネダが治めるマナウ・ゴドッディンよりも南方に、コエル・ヘンと呼ばれる強力な首長がおりノーザンブリテンと呼ばれる広大な国を統治していました。

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もう一度382~409年ごろのブリタニア勢力地図

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このコエル・ヘンはローマ帝国軍がブリタニアから410年に撤退した後、ブリタニア全体を統治する司令官となります。恐らくキネダもコエルに従っていたものと思います。

しかし、コエルがピクト族とスコット族の連合軍との戦いで、420年頃に戦死してからは事態が変わってきました。ノーザンブリテン国は息子のガルバニオンとセネウに分けられ、ガルバニオンは北部のベルナシア国を継承しました。

キネダはこのベルナシアと激しい戦いを行っています。ガルバニオンと確執があったのかもしれませんし、キネダに領土拡大の欲望が出たのかもしれません。真相はよくわかりませんが、キネダの戦いぶりは凄まじいものでした。

 

徹底的に敵を追い詰め壊滅するまで攻め殺戮を続け、その凄まじい戦い方にベルナシア軍は恐れで青く震えあがり逃げ出すものも後を絶たなかったと言います。

 

北部ブリタニアを掌握し最高司令官に

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キネダは勢いに乗りCaer Weir(現在のダラム)の要塞を陥落させてベルナシアを占領し、さらにはローマ軍最大の砦であったカーライル(Carlisle)を奪い取りました。

こうしてキネダはブリタニア北部を掌握してDux Britanniarium(ブリタニア最高司令官)を宣言し、コエル・ヘンの後継となる形となったのです。

 

Durham, England – Wikipedia

Carlisle, Cumbria – Wikipedia

 

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キネダの描写としてこんな表現があります。

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彼は黄金のベルトを身につけて

彼が歩くときには900頭もの馬と従者が彼に従い

彼が戦場に行くときには、赤い黄金のドラゴンが彼の頭上を飛び交い、

彼が剣を抜くときにはライオンの姿に身を変えて

その勇敢さと強さに誰もが恐れをなして抵抗する気力も失う

 

 知将キネダ 

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キネダはとても好戦的な人物であったと思います。しかしただの戦い好きではなくて、様々な戦略や考えにも続いて行動していたと思います。

 

・敵をも味方に取り込む

 辺境の警備をしていた頃は、ヴァイキングからの攻撃にも手を焼いていました。そこでキネダがとった行動は彼らの要求を聞くことでした。略奪を繰り替えすヴァイキングにとってとても魅力的な、住む場所と食料を与えることによって、キネダはヴァイキングを仲間に取り込んでしまいました。

ヴァイキングはその凶暴な戦闘能力と航海技術を持っています。キネダは自分に持っていない能力を、敵を味方に取り込むことにより手に入れて十分に利用したものと思います。

 

・強いものにはむやみに歯向かわず協力体制を作る

若いころローマ帝国の影響力が強かったときは、ローマ帝国には逆らわずスコットランドの厳しい気候の中で辺境警備に黙々とついていました。

またノーザンブリテン国のコエル・ヘンが最大勢力を持っていた時も逆らわず、コエルの娘と結婚して同盟の状態にありました。

 

 ・時代の流れを読んで時期を待つ一気に行動する

ローマやコエルもいずれは弱体化するか亡くなり勢力は弱まると考えていたキネダは、じっとチャンスを待ちます。そして410年にローマ帝国が撤退し、420年にコエルが亡くなると一気に行動を起こして、北部ブリタニアを掌握しました。

 

 

 人生の転機を利用する

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409~425年ごろのブリタニア勢力地図

 

司令官を放棄し南部に移住

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こうして北部ブリタニアに勢力広げたキネダは息子たちに辺境警備を任せながら10年くらいは平穏に過ごしていました。

ブリタニアは北部と南部に分かれていて、南部のブリタニア司令官であるヴォーティガン(Vortigern、拠点は地図中のPAGENES)はローマとの繋がりもあり、最も権力を持っていました。

440年頃、キネダは50~60才の頃になります。そのヴォーティガンから、南部ブリタニアの海岸(現在のウェールズ)に攻めてくるスコット族を追い払ってほしいと要請が来ます。

 

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そこでキネダは驚く決断に出ました。
自分の8人の子供と1人の孫を全員連れてウェールズ北部に移住したと歴史書には書かれています。もちろん、これまで持っていた北部ブリタニアの領土や地位は全部放棄してスコット族と戦う任務に就いたようです。

※ヴォーティガンに関する記事
映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?

 

 

移住した理由の考察

 

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キネダはなぜすべてを投げ打ってウェールズに移住したのか?僕はこの理由にとても興味を持ちあれこれと考えてみました。

 

・北部より気候の良い南部のほうが住みやすい

・母方はウェールズ出身で、父方の祖先も南部ブリタニアの可能性があり、南部ブリタニアにあこがれを持っていた
・とにかく戦い、危険を冒すことが好きで、スコット族と戦うのは又とないチャンス
・ブリタニアはこれから南部が中心になるだろうと感じていた
・ヴォルティゲルンは評判が悪く、自分が代わりを狙ってやろう・・・

 

どれが当てはまるのか?真相はわかりませんが恐らくこんな理由があったのではと思います。スコット族との戦いに集中し、ヴォルティゲルンや近隣諸国と争ったとも考えらないことから、領土を広げたいという欲はあまりなくキネダは根っからの戦士だったような気もします。

 

ふたたびキネダは猛者ぶりを発揮 

 

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ウェールズはアイルランドからやってくるスコット族の侵略に長年苦しんでいました。
ウェールズ南部や北部の海岸にはスコット族が居住地が数多くみられていました。

 

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※備考)アイルランドに住む人々をスコット族と呼び(のちにアイリッシュと呼ばれるようになった)、スコット族はブリテン島の北部に攻め込み国を作ったのでスコットランドと呼ばれるようになりました。 

 

キネダ達はこのUi Liathain(下の地図中ではMunster)からやってきたスコット族の侵略を阻もうと戦いを挑みました。そして、北部ブリタニア時代に戦った経験を存分に生かしたのではと思います。特にスコット族は海を越えて攻め込んでくるので、ヴァイキングの船を用いた戦術が役になったことでしょう。

Uí Liatháin – Wikipedia

 

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450年ごろのブリタニア勢力地図

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キネダと息子たちは、ウェールズの北部から南部まで侵略していたスコット族徹底的に攻めて壊滅させ、ウェールズから撤退させることに成功しました。

 

ウェールズの原形となる国を建国

 

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スコット族を追い払ったキネダはそこに国を建国しました。北部をグウィネズ(Gwynedd)、南部をケレディギオン(Ceredigion)と呼びます。キネダはその領土を分割し、8人の息子と一人の孫に分け与えました。

地図中で1~8と11になります。

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これらの国の名前は、息子たちの名前に因んでいるといわれ、現在も多くの名前が地名として残っています。
また自分の領土を均等に息子たちに分けることはウェールズで風習となり、10 世紀に制定されたウェールズ法にも記載されています。

 

 

ウェールズの創始者キネダのまとめ

 

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正しくはウェールズの原形となるグウィネズとケレディギオンの創始者であるキネダの血筋は、その後のウェールズ王室に引き継がれ、更にはテューダー朝に伝わり、現在のイギリス王室にまで達しています。

スタートの時点を知って現在まで辿っていくことはとてもロマンを感じます。

 

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ところで、表題にビジネスなど今の私たちにも活かせると書きましたので、その点についておさらいをしておきます。

・自身の力を知り、勝ち目のない相手には勝負せず自分のできることをする

・ライバルといえど良い点があれば吸収し、時には味方につける

・やるときは徹底的にとことん行う

・世の中の流れをつかみ、待つときは待つ、行動するときは思い切って行動する

・チャンスと思えば思い切った決断をし大胆に行動する

・欲望に拘らず得たものも人に分配する

 

4世紀のあまり知られていない伝説の人物ですが、多くを学ぶことができると思います。

 

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