プリンス・オブ・ウェールズの起源をご存知ですか?イングランドの皇太子がプリンス・オブ・ウェールズなのに、なぜウェールズのプリンスなの?と思いませんか?
プリンス・オブ・ウェールズは現在イギリスのチャールズ皇太子が1958年に就任しています。プリンスの名前がついているので王子、皇太子の意味ととらえがちですが、ここでのプリンスは統治者の意味で、日本語ではウェールズ大公やウェールズ公と呼ばれています。
今回は、プリンス・オブ・ウェールズは本当はどういう意味なのか?歴史上誰が就任していたのか?プリンス・オブ・ウェールズの真実に迫っていきたいと思います。
プリンスオブウェールズの起源について
プリンス・オブ・ウェールズはいつから始まったのですか?
プリンス・オブ・ウェールズは12世紀の中ごろに、当時大王と呼ばれたオウァイン・グウィネズ(オウァイン・アプ・グリフィズ)がウェールズほぼ全域に支配力を及ぼし、初めてそのスタイルを取りました。
なんでキングじゃなくてプリンスと言うんですか?
プリンス・オブ・ウェールズとはウェールズ語ではTywysog Cymruと言い、ウェールズの統治者という意味です。tywysogは統治者、Cymruはウェールズです。
ウェールズでは国を治める王は独裁者や権力を振るう者ではなく、統治者と呼んでいます。その理由は、多くのウェールズ統治者はウェールズ法により選ばれ、たとえその座についても能力が無いと判断されれば下されるケースもあり、比較的民主的に選ばれた人物だからです。
プリンス・オブ・ウェールズになったとしても悪政をしていると下されてしまうので、信頼される人物になる必要があったわけですね。
その後、オウァインの孫であるラウェリン大王(ラウェリン・アプ・イオルウェルス)が12世紀中旬にウェールズのほぼ全域を統治し、実質的なプリンス・オブ・ウェールズとなりました。
しかし、文書として正式には残されておらず、文書にプリンス・オブ・ウェールズと初めて明記されたのが、ラウェリン大王の息子であるダヴィズ・アプ・リウェリンでした。このダヴィズが公式では初代のプリンス・オブ・ウェールズとなっています。
へえ~そうすると、プリンス・オブ・ウェールズはおよそ800年近く続いているとても伝統のある称号なんですね。その後はどうなったんですか?
その後、二代目はダヴィズの甥ラウェリン、三代目はラウェリンの弟ダヴィズがプリンス・オブ・ウェールズになっています。
初代:ダヴィズ・アプ・ラウェリン
二代目:ラウェリン・アプ・グリフィズ
三代目:ダヴィズ・アプ・グリフィズ
真のプリンス・オブ・ウェールズの時代
2代目プリンス・オブ・ウェールズ、リウェリン・ザ・ラスト
しかし、三代目のダヴィズの後は状況が一変しました。2代目のラウェリンは別名ラウェリン・ザ・ラストと呼ばれ、イングランド王であるエドワード1世のノルマン軍と幾度となく戦争を行い、ウェールズの独立維持のために戦っていました。
しかし1282年にエドワード1世に敗れて戦死し、プリンス・オブ・ウェールズの王冠も持ち去られてしまいました。
そのあとを継いだのが、リウェリンの弟 ダヴィズ・アプ・グリフィズがプリンス・オブ・ウェールズを宣言し、エドワード1世に対抗を続けました。
しかし、翌年の1283年に捕らえられて処刑されました。ウェールズもこれでイングランドの支配下にはいってしまったわけです。
なんと!これでプリンス・オブ・ウェールズは終わってしまったという意味ですか?
ウェールズ人としてのプリンス・オブ・ウェールズは以上の3人で終わってしまいました。
その後は、イングランドの男性の第一王位継承者がプリンス・オブ・ウェールズの称号を与えられるしきたりとなりました。つまり、本当の意味でのプリンス・オブ・ウェールズはお話ししたこの3人です。
初代:ダヴィズ・アプ・ラウェリン
二代目:ラウェリン・アプ・グリフィズ
三代目:ダヴィズ・アプ・グリフィズ
歴代のプリンス・オブ・ウェールズ
その後のプリンス・オブ・ウェールズはイングランドの第一王位継承者なんですよね?
そうです、4代目のプリンス・オブ・ウェールズはエドワード1世の息子エドワード2世が任命されました。エドワード1世は息子エドワードをウェールズにあるカナーヴォン城で産ませ、ウェールズ語が話せるようにしました。
そして、ウェールズで産まれてウェールズ語が話せる人物ということで無理やりウェールズに対して筋を通して、プリンス・オブ・ウェールズにしたという逸話があります。
※以降の現在のチャールズ皇太子に至るまでのプリンス・オブ・ウェールズについてはこちらをご覧ください。プリンス・オブ・ウェールズ – Wikipedia
プリンス・オブ・ウェールズを名乗ったウェールズ人たち
ウェールズの英雄、オウァイン・グリンドゥール
ん~、ウェールズの人々にとっては魂を取られてしまったようですね。何か反論はしなかったのですか?
プリンス・オブ・ウェールズはウェールズの人々にとって誇りである称号でしたので、自分がプリンス・オブ・ウェールズだ!と非公式ですが宣言した人物もいました。
興味あります、教えてください~
ウェールズの大規模反乱を起こしたマドック
1294年~1295年にウェールズの国中に広がった反乱を起こしたリーダーがマドック・アプ・リウェリンと言う人物がいて、プリンス・オブ・ウェールズを名乗りました。マドックは最初の方にお話ししたプリンス・オブ・ウェールズのスタイルを初めてとったオウァイン・グウィネズの子孫になります。
マドックは活躍したのですか?
マドックは結構頑張って、イングランド軍を打ち破りカナーヴォン城を占拠してエドワード1世を包囲しましたが、結局敗れて投獄されてしまいました。
フランスで活躍したオウァイン
リウェリン大王の曾孫にオウァイン・ラウゴッホ(赤い手のオウァイン)と呼ばれる人物がいました。ラウゴッホはフリーカンパニーと呼ばれる政府から独立運営していた傭兵団のリーダーでした。
オウァインの傭兵団はどんな戦いに参加したのですか?
オウァインはプリンス・オブ・ウェールズを名乗り、イングランドとイギリスの100年戦争でフランス側に加担して、イングランドと戦いました。
フランスじゃなくイングランドとですか?
そうなんです。だからでしょうか、ウェールズに戻る前にフランスで殺されてしまったんです。
最後のウェールズの英雄オウァイン
ウェールズの幾つかの王室の血を引くオウァイン・グリンドゥールはイングランドに対して反乱を起こしプリンス・オブ・ウェールズを名乗りました。一時はウェールズ全域を掌握しましたが、イングランド軍の反撃にあい鎮圧されてしまいました。
オウァイン・グリンドゥールは現在もウェールズの英雄として語り継がれている歴史上の有名人物です。
※オウァイン・グリンドゥールに関する記事
最後に
今回はプリンス・オブ・ウェールズについて、その歴史的な背景をお話いたしました。プリンス・オブ・ウェールズは、ウェールズの統治者が始まりで現在はイングランドの皇太子が受け継いでいる形をとっています。そこには様々な歴史が刻まれていることが分かって頂けたと思います。プリンス・オブ・ウェールズの歴史についても親しんで頂ければ幸いです。
※ウェールズの歴史が良く分かる纏め記事
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