11世紀初めにイングランドはデーン人に降伏し、デーン朝が始まりました。
また11世紀には、ノルマン人によってイングランドは征服され、ノルマン朝が始まりました(ノルマンコンクエスト)。
どのような歴史的な背景があり、イングランドはデーン人やノルマン人に支配されたのでしょうか。
時代の流れを分かりやすくお話いたします。
キーワード:エゼルレッド無思慮王、スヴェン2世、クヌート1世、エドワード懺悔王、ギョーム2世
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デーン朝とウェセックス朝の簡単な家系図
◆デーン朝の家系図(デンマーク王スヴェン1世の子孫)
四角で囲っているのはイングランド王になった人物です。
◆ウェセックス朝の家系図(アングロ・サクソン系)
四角はイングランド王で、エゼルレッド2世の2番目の妻エマは、(上記の)クヌート1世の後妻。
デーン朝が始まった背景(エゼルレッド無思慮王)
エゼルレッド2世
イングランドの創立から長く続いていたウェセックス家(アングロ・サクソン系)のエゼルレッド2世(無思慮王)は、度重なるデーン人の襲来に困り退去してもらうために毎度大量の銀を支払いました(デーンゲルドと呼びます)
しかし、度重なる襲来に財政も厳しくなり、1002年にイングランドに在住するデーン人たちを大量虐殺してしまいました(聖ブライスの日の虐殺)
当時のデーン人の王は、デンマークやノルウェーを治めていたスヴェン1世でした。スヴェン1世はヨーム戦士団などを引き連れ、虐殺の復讐としてイングランドに襲来しまし、これまで以上にイングランドへの攻撃は激しくなりました。
デーン人の襲来はフランスのノルマンディーを拠点にしていました。このため、エゼルレッド2世は、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと政略結婚をして、デーン人たちの拠点化を防ごうとしました。しかし、なんの効果も得られませんでした。
またエゼルレッド2世はデーン人の襲来に対抗しようと、100隻もの大艦隊を作りました。しかし内輪もめが勃発し、有能な戦士ウルフノースは80隻の船を焼き尽くし、20隻の船を持って国外脱出しました。
この愚かな状況を見たスヴェン1世は大規模なデーン軍団をイングランドに送り込みました。1013年の襲来の際に、エゼルレッド2世はイングランドを放棄して、妻エマの実家であるノルマンディー公国に亡命してしまいました。
こうして、エゼルレッド2世に代わり、スヴェン1世がイングランド王となり、デーン朝が始まりました。
エゼルレッドの復位~クヌート1世の誕生
クヌート1世
ところが、イングランド王となったスヴェン1世は1か月ほどで亡くなってしまいます。これを見たエゼルレッド2世は喜んでイングランドに戻り、復位します。
しかし、人物的にも魅力のないエゼルレッド2世には、もはや権力は残っていませんでした。イングランドで有力者であったマーシア伯のエアドリックも寝返り、エゼルレッドは苦境に立たされていました。
この状況の中で、スヴェン1世の息子クヌート1世は1016年にイングランドに襲来し、再びデーン人にイングランドを奪われるのは秒読みの状況でした。
そのなか、1016年にエゼルレッド2世は病死しました。
クヌート1世は軍を率いて、イングランドの襲撃を始めました。ところが、エゼルレッド無思慮王は1016年に亡くなり、息子のエドマンド剛勇王(エドマンド2世)が王位を継ぎました。
エドマンド2世(剛勇王)
エドマンド剛勇王は、父エゼルレッド無思慮王とは異なり行動的で武勇に優れていました。
エドマンド剛勇王はクヌート1世との4度の戦いでは、デーン軍を追い払いクヌート1世を手こずらせました。ところが、エドマンド剛勇王側の味方が逃亡したことを契機に、5度目の戦い(1016年:アシンドンの戦い)でエドマンド剛勇王はクヌート1世に屈しました。
エドマンド剛勇王はクヌート1世と休戦協定を結び、イングランドを二分して共同統治することを決めました。
しかし、戦いで受けた傷がもとでエドマンド剛勇王は亡くなってしまい、クヌート1世は唯一のイングランド王となり、デーン朝が復活しました。
※その後、クヌート1世はデンマーク王、ノルウェー王にもなり、強大な北海帝国を築きました。
クヌート1世は1016年~1035年までイングランドを統治しました。
クヌート1世の統治下では、デーン人の襲来は無く銀を支払うこともなくなりました。また、クヌート1世はイングランドを4つの区に分け(アール:伯)、能力・実力のあるものはデーン人でもアングロ・サクソン人でも分け隔てなく、伯の位を与えて統治させました。このように、イングランドの人々はエゼルレッド無思慮王の時代よりも平和に暮らせました。
3代続いたデーン朝(スヴェン王を合わせると4代)
クヌート1世の統治は19年に及び1035年に亡くなると、妻エマは前夫エゼルレッド無思慮王との息子アルフレッドを王にしようと考えました。
しかし、クヌート1世の前妻との息子ハロルドがアルフレッドを暗殺して、イングランド王ハロルド1世となりました。
ハロルド1世はハロルド庶子王と呼ばれ、何もしない放蕩王でした。1040年にハロルド庶子王が亡くなると、クヌート1世とエマとの息子ハルタクヌートがイングランド王となりました。(デンマーク王も兼ねた)
ハルクタヌートは温厚な人物で、兄ハロルド庶子王の行為を詫び、次期のイングランド王は、義兄のエドワードを指名しました(エゼルレッド無思慮王と母エマとの息子)。
ハルクタヌートは1042年に若くして亡くなり、4代にわたったデーン朝は幕を閉じました。そして、久しぶりにアングロサクソン系のエドワードがイングランド王になりました。
誤算のウェセックス復朝
エドワード懺悔王
こうして、久しぶりのウェセックス家(アングロサクソン系)からのイングランド王エドワードに、人々は歓喜しました。ところが、懺悔王と呼ばれたエドワードはイングランドの人々の落胆と反感を買いました。
エドワード懺悔王は、父エゼルレッド無思慮王がスヴェン1世に敗れフランスのノルマンディー公国に亡命していた時に産まれた子供でした。
エドワード懺悔王は25年もフランスに住んでいたため、英語は話せずフランス語を話しました。また、イングランドの重臣もノルマン人で固めてしまいました。
さらに、母の甥の息子ギョーム2世(後のイングランド王ウィリアム1世)とは子供のころから仲の良い親族でした。
エドワード懺悔王は、ギョーム2世に自分の次のイングランド国王をギョーム2世に約束したのです。
せっかくデーン朝が終了し、アングロサクソンによるイングランド統治が戻ってきたのに、これでは今度はノルマン人に国を乗っ取られたようだ、とエドワード懺悔王はイングランド内でとても不評でした。
(エドワード懺悔王はあまり政治の表舞台に出ることなく信仰に身を投じました(ウェストミンスター寺院を建設)
ハロルド・ゴドウィンソン
エドワード懺悔王が1066年に亡くなると、イングランドの人々は真のアングロサクソン人による統治を望みました。そして、エドワード懺悔王の妻エディスの兄でウェセックス伯のハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王になりました。
怒ったギョーム2世、ノルマンコンクエストへ
ウィリアム1世(ギョーム2世)
このハロルド2世のイングランド王戴冠に怒りを表したのが、エドワード懺悔王からイングランド王の後継を約束されていた、ノルマンディー公ギョーム2世でした。
ギョーム2世は、ハロルド2世のイングランド王や、ハロルド2世になってからノルマン人の教会司教などを排除してアングロサクソン人に事は、「教会法違反」であると訴えました。
そして、ローマ帝国アレクサンデル2世やドイツ国王ハインリヒ(神聖ローマ皇帝)に訴えは認められ、ギョーム2世は官軍として戦いを起こしました。
こうして1066年に、ギョーム2世が率いる官軍は1066年にドーバー海峡を渡りイングランド王国に侵入し、ハロルド2世をヘイスティングスの戦いで破り、イングランド王ウィリアム1世として、ノルマン朝を開いたのでした。
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参考図書:この本は良く分かりおススメです!
- 作者:桜井 俊彰
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2015/12/17
- メディア: 新書
イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 (歴史文化ライブラリー)
- 作者:桜井 俊彰
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2010/10/01
- メディア: 単行本
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