古代~中世イギリスの時代と歴史を変えた8つの戦い

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こんにちは、たなかかきらです。

古代~中世のイギリスでは、頻繁に戦いが起きていまいました。

中には支配者を変えるきっかけになる戦いが起こり、その後の歴史を変えることもありました(支配する民族も変わる)。

今回は、イギリスの歴史を変えた戦いについて、どのように時代を変えたのか、古い順から8つご紹介いたします。

 

 

①ミッドウェイ川の戦い(43年、ローマ帝国支配の開始)

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写真:敗れたブリタニアのカラタクスのスピーチ

 

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ブリタニアとローマ帝国との間、起源43年に起きた戦いです。この戦いで、事実上ローマ帝国のブリタニア支配がはじまりました。

 

古代~7世紀ごろまで、現在のグレートブリテン島の大部分はブリタニアと呼ばれていました。(現在のイングランド、ウェールズ付近)

ブリタニアはケルト系ブリトン人の種族の国々に分かれ、それぞれの首長が統治していた。

 

 

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紀元1世紀では、カトゥヴェラウニ族(Catuvellauni)の首長カラタクス(Caratacus)が最も強い勢力を持っていました。

カトゥヴェラウニ族の隣には、アトレバテス族の国があり(Atrebates)、ローマ軍人のヴェリカ(Verica)が事実上支配していました。

カラタクスは勢力を広げようと、アトレバテスを征服し、ヴェリカは追放され、ローマに逃げ帰りました。

 

やられたらやり返すのが日常茶飯事の時代です。ヴェリカはカラタクスから受けた屈辱を、ローマ皇帝クラウディウス(Claudius)に訴えました。

こうして、ローマ帝国のブリタニア侵攻が本格的に始まったのです。

 

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起源43年にアウルス・プラウティウス(Aulus Plautius)を将軍とする、総勢4万人とも言われるローマ軍がブリタニアに攻め入りました。

これに対し、カトゥヴェラウニ族の首長カラタクスは15万とも言われる兵力を率いたカミッドウェイ川の戦いでローマ軍とぶつかりました。

 

ウェールズはゲリラ戦法で戦うも、強力な武器を持ち統率のとれたローマ軍にはかなわず、カラタクスは敗北しました。

カトゥヴェラウニの領土は南東の大部分を占領され、強力な要塞があったコルチェスターはローマの居住地へと変わってしまいました。

こうして西暦43年、ローマ帝国によるブリタニア征服が始まったのです。

 

👉参考:
・<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア
・ローマ皇帝をうならせたブリタニア王のスピーチ (カラクタス)

 

②長剣の裏切り(5世紀中ごろ、アングロ・サクソン人の侵略開始)

 

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写真:ヘンゲストとホルサ兄弟のブリタニア上陸

 

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ローマ帝国が410年にブリタニアから撤退した後は、ローマ帝国の影響を残しながらもブリタニア自身での統治が再開しました。

その時に起きた事件が、長剣の裏切り(Treachery of Long Knives)と呼ばれる争いです。この裏切りが、アングロ・サクソン族はブリタニアに侵略して領土を広げていくきっかけになりました。

しかし、ブリタニアはローマ軍なしで、北からピクト族や西からスコット族(アイルランド人の先祖)などの外敵から、自国を守らなければならない問題が出てきました。

 

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そこで、兵力不足に悩む当時のブリタニア長官、ヴォーティガンは、ドイツ北部のジュート人であるヘンゲストとホルサ兄弟を傭兵として雇い入れました。

しかし、これが裏目に出たのです。

ヘンギストには美しい娘ロワナがいました。宴会の席で、ヘンギストとホルサの兄弟はロワナをヴォーティガンに紹介しました。

一目でロワナに恋をしてしまったヴォーティガンは、まんまとヘンゲストとホルサ兄弟の思うツボにハマってしまいました。

美女のお酌で酔って油断したところに、長剣を持ったヘンゲストとホルサ兄弟の武装集団に取り囲まれてしまいました。

ヘンゲストとホルサ兄弟は、ブリタニアの東側のケントの領土を要求し、乗っ取ることに成功したのです。

この出来事がもとで、ヘンゲストとホルサ兄弟はドイツからアングル人やサクソン人も呼び寄せ、領土を拡大して行ったのです。

👉参考:
映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?

 

③ベイドン山の戦い(6世紀、アングロ・サクソン人との戦い)

 

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写真:ウィキペディアより

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6世紀頃にブリタニアとアングロ・サクソン人との間で起きた戦いです。この戦いで、ブリタニアは勝利しました。

しかし、アングロ・サクソン人の侵略を当面の間防いだものの、アングロ・サクソン人の侵略を止めることはできず、7世紀ごろまでにはブリタニアの大部分を占領されました。

 

 

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ベイドン山の戦いについて、幾つかの歴史書に記載はされています。しかし、いつ誰が、どこで、どのように戦ったのか、詳細は分かっていません。

アングロ・サクソン人との戦いと書きましたが、これも推測です。

 

歴史書によりますと、

ブリタニアが戦った12の会戦が記録されており、最後のベイドン山の戦いで一人で960人のサクソン敵兵を倒したとの記述があります。

また、ベイドン山の戦いは516518年と記されている歴史書もあります。アルトリウスとされる人物が三日三晩の間十字架を両肩で担ぎ戦いに勝利したたとされています。

 

このアルトリウスが、アーサー王ではないか?という説があるのです。

👉参考:
アーサー王伝説 アーサー王は実在したのか?歴史書にみるアーサー王と先祖

 

④リンディスファーン島の襲撃(793年、イングランドのヴァイキング支配)

 

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ヴァイキングは中世ヨーロッパに出現しました

主にデンマーク、ノルウェーに住む人々の中で、9~12世紀にイギリスやフランスなど西ヨーロッパ各地の海岸に出現して海賊行為を働き、また広大な領土を支配しました。

 

 

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793年に起きたリンディスファーン島の襲撃が、ヴァイキングがイングランドを侵略する始まりとなりました。

ノルウェーのヴァイキングは、北東イングランド海岸の沖合にあるリンディスファーン島の修道院を襲ったのを皮切りに、何度もイングランドに侵略を繰り返しました。

9世紀になるとデンマークのヴァイキングもイングランドを侵攻し、デーンローと呼ばれるイングランドの約1/3を治めるにまで領土を広げたのです。

👉参考:
ヴァイキングの歴史 ヴァイキングはなぜ強かったのか 

 

 

 

⑤ヘイスティングスの戦い(1066年、ノルマン人によるイングランド征服)

 

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更に、ヴァイキングのイングランド侵略は続きました。
歴史的な最大の出来事は、1066年に起きたヘイスティングスの戦いです。

この戦いに勝利したノルマン人は、アングロ・サクソン支配のイングランドを征服し、イギリスの歴史を大きく変えたのです。(ノルマンコンクエスト)

 

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当時のイングランドは、デンマークのヴァイキングに支配された時代もありましたが、アングロ・サクソン人のハロルド2世が統治していました。

フランスのノルマンディーを侵略して定住したヴァイキング(ノルマン人)の子孫、ギョーム2世が、イングランドの所有権を主張して1066年にイングランドに攻め込んできました。

ギョーム2世とハロルド2世はイングランド南部のヘイスティングスで戦い、ハロルド2世は戦死し、ギョーム2世が勝利しました。

ギョーム2世はイングランド王ウィリアム1世となり、イングランド王室ノルマン朝を作りました。現在の学校で習う歴史では、1066年がイングランドの建国とされています。 

👉参考:
イギリスの歴史を変えたノルマンコンクエスト(ノルマン征服)の再現が行われた

 

⑥オレウィン橋の戦い(1282年、イングランドのウェールズ支配)

 

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写真:オレウィン橋の戦いで敗れたラウェリン

 

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アングロ・サクソン人がブリタニアを征服したときも、ノルマン人がイングランドを征服したときも、ウェールズも侵略は受けたものの独立を保っていました。

しかし、13世紀の後半のオレウィン橋の戦いで敗れ、ついにウェールズはイングランドに屈し、征服されたのです。

 

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12世紀~13世紀のウェールズでは、プリンス・オブ・ウェールズを名乗る強力な統治者が登場し、イングランド(ノルマン朝イングランド)との戦いを繰り広げていました。

ウェールズを支配した最後のプリンス・オブ・ウェールズは、ラウェリン・ザ・ラスト王です。

1282年にラウェリンの弟ダヴィッズが起こした反乱はウェールズ中に広がりましたが、準備不足と弱体化したウェールズ軍は何れもイングランド軍に敗北してしまいました。

 

 

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ラウェリンはイングランドに降伏してエドワード1世と協定を結ぼうとしていたが、ダヴィッズは拒否して戦いを止めませんでした。

 仕方なくラウェリンも戦いを続行しましたがオレウィン橋の戦いで敗れ、川沿いで戦死しました。

ダヴィッズは戦い続けましたが、結局捕らえられ処刑されてしまいました。 

 

この敗北により、ウェールズは事実上イングランドの支配下に置かれ、ウェールズ人によるウェールズ統治が終わりました。

またプリンス・オブ・ウェールズの王冠もイングランドに奪い取られ、その後はイングランドの皇太子がプリンス・オブ・ウェールズを称するしきたりとなりました。

👉参考記事:
・本当のプリンス・オブ・ウェールズ 対 ノルマンのイングランド
・真のプリンス・オブ・ウェールズとは? 

 

⑦100年戦争(1337~1453年、フランスの領土大幅減)

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1066年のノルマンコンクエスト以降、イングランドはフランスから渡ったノルマン人の子孫が治めており、フランスにも領土を持っていました。

12世紀にはイングランドとフランス両方合わせて広大な領土を治める、ヘンリー2世も出現しました。

 

👉参考:名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景 

 

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100年戦争とは、イングランドとフランスの国家間の争いではなく、フランス王とイングランド王の戦争です。フランスを戦場に、フランス王位継承およびフランス領土の所有権に関して争い、約100年間断続的に続きました。

当初はイングランド軍が優勢に進め、一時はフランスの半分の領土を占領しました。しかし、ジャンヌ・ダルクが登場してから形勢は逆転し、イングランド軍は最終的には敗北しカレー以外の領土を失いました。 

👉参考記事:
・イギリスとフランスの100年戦争の分かりやすい概要
・ジャンヌダルクの生涯が分かる映画 「ジャンヌ・ダーク」

 

⑧ボースワース野の戦い(1485年、薔薇戦争の終結)

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薔薇戦争とは、イギリス(
イングランド)の15世紀に起きた王室の後継・権力争いです。赤薔薇のランカスター家の血筋と白薔薇のヨーク家の血筋が王座をめぐって戦いました。(1455~1485年)

 

薔薇戦争の発端は、100年戦争で敗北したヘンリー6世は気が狂う発作が起き、国政を行えなくなったことです。

ヘンリー6世に変わってヨーク公リチャード(ヨーク家)がイングランドの王座を狙い、ヘンリー6世の王妃マーガレット(ランカスター家)は、息子エドワードを擁立して対抗しました。

こうして、ランカスター家とヨーク家の王位継承争いから、諸侯が二陣営に分かれて争うバラ戦争に突入していったのです。

 

 

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有名なイギリスの天下分け目の戦いは「薔薇戦争」の最後の戦いである、1485年に起きたボーズワース野の戦いです。

15世紀にはヨーク家のイングランド王が3代つづき、悪名高きリチャード3世がイングランド王でした。

リチャード3世は反対派を排除し過ぎ、不満を持った貴族たちがランカスター家を復活させようと、ランカスター家の血を引くヘンリー・テューダーを擁立したのです。

 

 

当時フランスに住んでいたヘンリー・テューダーは兵を挙げてウェールズに上陸し、ウェールズ人たちを味方につけて、ボーズワース野でリチャード3世と戦いました。

この戦いに勝利したヘンリー・チューダーは薔薇戦争を終結させ、ヘンリー7世として戴冠しました。イングランド王国は新たにテューダー朝が始まったのです。

👉参考記事

・薔薇戦争の最後の戦いが、イギリスの歴史を大きく変えたワケ

 

最後に

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古代~中世のイギリスでは、頻繁に戦いが起きており、支配者を変えるきっかけになる戦いが起きていました。

・ブリタニア独自の支配
・ローマ帝国の支配
・アングロ・サクソン人の支配
・ヴァイキングの支配
・ノルマン人の支配
・イングランド王室内の争い

この記事を読んでいただき、イギリスの歴史に興味を持ったり、理解が深まったりしたのでしたら、嬉しく思います。 

イギリスの歴史が2時間でわかる本 (KAWADE夢文庫)

 

👉おすすめ記事

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・イギリス王室より歴史が長いウェールズ王室の起源・ウェールズの王室の血筋を守った!因縁の天下を分けた戦い

 

 

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