時代はローマ帝国の支配下にあった、4世紀のウェールズ。
ウェールズの首長であったエウダヴ・ヘン(Eudaf Hen、オクタヴィウス(Octavius)とも呼ばれる)はローマ帝国に反乱を起こし、ローマ総督や新たに送られてきたローマ軍を破り、ブリタニア王を宣言する荒業にでました。
このエウダヴ・ヘンの反乱について紹介いたします。
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<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア
エウダヴ・ヘンの反乱の原因はコンスタンティン1世
コンスタンティン1世
4世紀初め、ブリタニア王および西ローマ皇帝であったコンスタンティン1世(Constantine the Great)は、324年に東ローマ帝国の王も引き継ぎ、全ローマ皇帝となりました。
もはやコンスタンティン1世はブリタニアの統治に直接かかわることが出来なくなり、ブリタニアを後にし、ローマの地方総督をブリタニア王として派遣しました。
これに対して、ウェールズ付近の首長であったエウダヴ・ヘン(Eudaf Hen)は、下級総督が王となったことに、「ブリタニアは見下された」と反乱を起こしました。
※それまではローマ皇帝またはそれに匹敵する身分の人物がブリタニア王となっていました。
エウダヴの勝利と敗北
エウダヴの反乱軍はローマ地方総督を殺害し、エウダヴはブリタニア王を宣言しました。
しかし、これに対しコンスタンティン1世はエウダヴの反乱を鎮圧しようと、大叔父のトラヘルン(Trahern)を送り込みました。
エウダヴとトラヘルンの最初の戦いは、当時の首都であったウィンチェスター郊外でした。勢いに乗るエウダヴはこの戦いでも勝利し、トラヘルンはスコットランドに脱出しました。
※スコットランドにはローマ軍が駐在するカーライルとハドリアヌスの長城がある
トラヘルンを追ってエウダヴ軍も北上し、両軍はカーライル郊外のウェストモーランドで再び戦いました。
体勢を立て直したトラヘルン軍にエウダヴ軍は完敗し、エウダヴはブリタニアから脱出せざるを得ませんでした。
こうして、エウダヴの反乱はトラヘルンによって一旦は鎮圧され、トラヘルンはブリタニア王を宣言しました。
エウダヴの逆襲
ブリタニアを脱出したエウダヴはノルウェーに逃れ、グンベルト王(King Gunbert of Norway)に助けを求めました。エウダヴはノルウェーで反撃のチャンスをうかがっていました。
ところが、ブリタニアで エウダヴを支持する人々は、ロンドン郊外で密かにトラヘルンを急襲、暗殺しました。
トラヘルンが殺害された情報を得たエウダヴは急きょブリタニアに戻り、ローマ軍を蹴散らし、再度ブリタニア王を宣言しました。
こうして、ローマ軍からブリタニアを奪回したエウダヴは、大きな名声と地位を得ることが出来たのです。
ブリタニアとローマの和解
マグヌス・マクシムス
ブリタニア王となったエウダヴには大きな懸念がありました。ローマ帝国が本気になって、ブリタニアを奪回しに攻めて来ることです。
このため、エウダヴは美しい娘エレンをローマ帝国の幹部と政略結婚させ、ブリタニアの安泰を図ろうとしました。
エレンと結婚した相手は、エウダヴ・ヘンの後継者となり、後に西ローマ帝国皇帝となったマグヌス・マクシムスでした。
マイナーな西ローマ皇帝「マグヌス・マクシムス」の夢を与えた出世街道
マグヌス・マクシムスはウェールズでマクセン王とも呼ばれ、マクシムスとエレンの結婚は「マクセンの夢」として物語となっています。
ローマ軍との戦いの勝利、またマグヌス・マクシムスとの関係や、アーサー王との関連などから、エウダヴ・ヘンはウェールズの歴史においても、キーマンであると言えるでしょう。
- 作者:ジェフリーオヴモンマス
- 出版社/メーカー: 南雲堂フェニックス
- 発売日: 2007/09
- メディア: 単行本
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