今回は、ローマ軍が去った後、ブリトン人自身でウェールズを統治した時代(広くは、ブリトン人自身でブリタニアを統治した時代)について、お話しいたします。
※簡単なウェールズ歴史年表、今回の話は5世紀初め~7世紀後半になります
※全体の記事
- ローマが去り統治権が回復したウェールズの問題
- ブリタニアにリーダー出現
- ウェールズ王室の設立
- 勢力を伸ばすウェールズ
- ウェールズとアングロ・サクソンの戦い。ブリタニアの終焉
- 最後のブリタニア長官
- ブリタニア時代のまとめ
ローマが去り統治権が回復したウェールズの問題
ブリタニアの一部であったウェールズは、1世紀中旬から5世紀初めまで約400年近くもローマ帝国の支配下にあった。ローマ文化と融合しつつも、ブリトン人独自のケルト文化を守りながら、ローマ支配のもとで自治を続けていた。
ところが4世紀末になると、ローマ帝国は東西に分離したり、バンダル族やゴート族などの外敵に激しく攻め込まれるようになり、ブリタニアにローマ兵を置いておくことが困難となってしまう。
そしてついに410年、ホノリウス帝の時にローマ軍はブリタニアから撤退して、事実上、ローマ帝国支配が終焉した。
ローマ軍がブリタニアから撤退。それは、ブリタニアの独立を意味するのでしょうか?再び外敵から攻められるようになるのでしょうか?
ブリタニアを取り巻く外敵について、おさらいをしておこう。
ブリタニアの北にはピクト族、西にはスコット族、さらにはヴァイキングなどの外敵がいて、常にブリタニアは脅威にさらされていたんだ。
そうでしたね。ブリタニアはある意味、駐在していたローマ軍に外敵から守られていたこと考えると、ローマ軍という防御盾がなくなり、ブリタニアは大変な時代になったのですね。
そうなんだ。ブリタニアに統治権は戻り、いわばローマ帝国から独立できたんだけれど、自分の国は自分で守らないといけなくなったんだ。
ブリタニアを守るためのリーダーが必要になってきますよね。
ブリタニアにリーダー出現
二人の大物
ローマ軍が去った後の5世紀初めごろ、ブリタニアは主に4つの地域に分かれており、北部はコエル・ヘン(Coel hen)と呼ばれる首長が、ウェールズを含む南部はヴォーティガン(Vortigern)と呼ばれる首長が実力を持っていた。
北のコエル・ヘンは、現在のスコットランド南部(地図中北部の水色の部分)にも影響力を広げて、北からのピクト族や西からのスコット族、ヴァイキングの侵略に備えた。
南部のヴォーティガンも、当初は西からのスコット族の侵略に対して、戦っていた。
※赤い部分がブリタニアで、コエル・ヘンは地図中で北部のNorthern Britain、ヴォーティガンは南西部のPagnsesに拠点をおいていた。
ヴォーティガンって、聞いたことありますね。そういえば、キングアーサーの悪役で出てませんでしたか?
映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?
キング・アーサーのヴォーティガンは伝説をもとにした作り話だけどね。実際のヴォーティガンも記述や伝説によると、悪事や失策をするなど、良い噂はないようだ。
ウェールズ沿岸付近には、西からスコット族が激しく攻めてきて、ヴォーティガンは手を焼いていた。
たまりかねたヴォーティガンはローマ帝国に援軍を求めるけれど、断られてしまう。
断られた原因の一つに、ヴォーティガンの行為に問題があったようだ。キリスト教に反して近親相姦をしたり、私腹を肥やしたりしているのを、抜き打ち偵察に来ていた聖職者に見つかったそうだ。
ローマ軍の援助を得られなかったヴォーティガンは、2つの策を取ったと考えられる。その2つともが、ウェールズだけでなくブリタニアの運命を大きく変えることになる。
ヴォーティガンがとった策 その1
ヒンギストの娘に惚れ、騙されるヴォーティガン(ウィキペディアより)
ヴォーティガンはゲルマン系民族であるジュート人、ヘンギストとホルサ兄弟に目をつけたんだ。
外国から傭兵をやとったと言うことでしょうか?
そうだよ。ヴォーティガンはヘンギストとホルサ兄弟を迎え入れたものの、兄弟は実はくせ者だったんだ。ブリタニアから外敵スコット族を追い出すことが目的だったのに、新たな外敵を呼び寄せてしまったんだ。
ヘンギストとホルサは、ブリタニアに居座り、自分の娘を差し出してヴォーティガンを罠にはめて脅迫し、東岸のケントの領土を奪った。
さらに本国から仲間を連れてきて、居住地区を広げていった。(西暦450年あたり)
ジュート人、アングル人、サクソン人が次々とブリタニアにやって来て侵略をはじめ、領土を拡大していったのだ。
ブリタニアにやってきた、ヒンギストとホルサ(ウィキペディアより)
つまり、ゲルマン系のアングロ・サクソン族のブリタニア侵略が始まったのだ。アングロ・サクソン族の侵略のきっかけを作ったのが、ヴォーティガンとされ、一説では悪者となっている。
ヴォーティガンがとった策 その2
ヘンギストとホルサ兄弟にやられている間も、スコット族は次々とウェールズ付近に攻め込んで来た。何とか手を打たなければならない。そこでヴォーティガンは別の人物に着目したんだ。
その人物は、大丈夫なんでしょうね?
ヴォーティガンが呼び寄せたと考えられる人物は、キネダ(Cunedda ap Edern、380-445年頃)と呼ばれる男だよ。
キネダは、ピクト族が住むピクトランド(Pictland)に接する、マナウ・ゴドッディン(地図中ではGoutodin)を統治していた首長で、ピクト族やヴァイキングとの戦いの最前線で活躍していた。
キネダは外敵ピクト族やバイキングを玉砕して勢力を広げ、北部ブリタニアの実力者コエル・ヘンの娘婿となり、後継の地位を実力で奪い取った。
キネダはその武力を高く買われ、ウェールズに攻めてくるスコット族の侵略を防いで欲しいと、南部ブリタニアの長官ヴォーティガンから要請を受けた、と考えられる。
そこで、スコットランド付近の自国を離れて、はるばる南部のウェールズまでやってきたのだ。
※キネダ一族の大移動(440年あたりと考えられる)
キネダは大きな決断をし、スコットランドの地を離れ8人の子供と1人の孫を連れてウェールズ北部に移住し、スコット族と戦った。そして、スコット族を完全に追い払ったと歴史書には書かれている。
ところで、ヴォーティガンはどうなったのか?
ヴォーティガンはヘンゲストとホルサ兄弟にやられて領土を奪われただけでなく、仇討ちにあって失脚したと言われている。
そもそも、ヴォーティガンが南部ブリタニアの長官になったとき、前任のコンスタンス2世を殺害して奪った、という伝説がある。
このため、コンスタンス2世の弟であるアンブロシウスに仇を討たれ、命と引き換えに持っていた領土と長官の位を返上したのだ。
ヴォーティガンは一旦は降参したものの、アンブロシウスに反撃をしようと企んでいたところ、雷に打たれて最期をとげたそうだ。
ウェールズ王室の設立
スコットランドからはるばるやってきたキネダは、その後どうしたのでしょうか?
キネダはスコットランドから思い切ってウェールズに移住してきたけれど、先見の目があったのかもしれないな。長官ヴォーティガンは評判が悪かったし、ヘンギストとホルサ兄弟やアンブロシウスにやられて勢力が弱まったのを、チャンスと考えたのかも知れない。
キネダは、北部ウェールズでスコット族を追い払った領土を確保して勢力を広げ、グウィネズ国(Gwynedd)を建国した。
グウィネズは中世ウェールズの原形となった国と言われ、現在でもGwyneddの地名は残されている。
キネダは更に勢力を伸ばし、息子たち9人に領土を分け与えた。伝説によると、それぞれの領土は9人の名前に因んだ国名となっているそうだ。その後、長きにわたってグウィネズの統治者の血筋がウェールズ王室を作っていくことのである。
ということは、キネダはウェールズの開祖で創始者なんですね。
そうだな。このウェールズ王室の血筋からは、多くの偉大なウェールズの統治者が生まれるんだ。
更に子孫はイングランド王室でテューダー朝の、ヘンリー8世やエリザベス1世にまで繋がっていくんだよ。キネダは殆ど知られていない人物だけど、この点では大きな意味を持った人物と思うね。
勢力を伸ばすウェールズ
マエルグウィン像(ウィキペディアより)
キネダの息子エイニオン、孫カドワロンやオウァインの時代に着々と勢力を固め、カドワロンの息子マエルグウィンの時には勢力は強大になり、ブリタニア全域に影響力を及ぼすようになったんだ。(事実上のブリタニア長官)
マエルグウィンはどんな人物だったのですか?
悪魔のような人物だったんだよ。
※マエルグウィン・アプ・カドワロンMaelgwn ap Cadwallon(480-547頃)、中世ウェールズでは苗字がなく、自分の名前の後ろに親の名前を付けて呼ばれた。
マエルグウィンは517年頃、叔父オウァイン・ダントグウィンを殺害して統治者の座を奪った。女癖が悪く甥の嫁を略奪し、甥と自分の妻を殺害したり、司教をだまして財宝を奪ったり、わがままの短気で怒らせると手が付けれなかった。
カリスマ的な支配力があり勢力を拡大したものの、悪魔の様な性格で暴君化し、息子ランに廃位させられた。
※ちなみに、マエルグウィン(Maelgwn)はアーサー王物語のなかで、ウェールズの「100人騎士の王マラグウィン(Malaguin)」として登場している。
このように、キネダ、マエルグウィンを初めとする、ウェールズ北部のグウィネズの統治者が勢力を伸ばして行き、ウェールズの国を固めていった。その後は、カドワロン、カドワラドルなど実力を持った人物がウェールズの統治者となり、ブリタニアに大きな影響力を与えた。
しかしながら、ヴォーティガンの時代にケントに国をつくったアングロ・サクソン族が勢力を広げていき、ブリタニアは圧迫されていく。
ウェールズとアングロ・サクソンの戦い。ブリタニアの終焉
拡大するアングロ・サクソン
これが、グレートブリテン島でアングロ・サクソン族の勢力が拡大していく様子だよ。ウェールズ創始者のキネダの時代(450年頃)は、ブリタニアが大部分で(水色の部分)まだアングロ・サクソンの領土(緑色の部分)は殆ど見られないけど、時代を追うごとに西岸のケントから西へ北へ急速に拡大していくことが、よく分かるな。
本当ですね。マエルグウィンの後の時代600年頃になると、水色のブリタニアの部分は、スコットランドからウェールズにかけての西岸が残るのみになってますね。
アングロ・サクソン七王国
ウェールズやブリタニアの国々は、アングロ・サクソンの侵略を防ぐために戦ったんですよね。その中で、活躍した人物はいるんでしょうか。
そうだな。まずは、アングロサクソンの国々を見てみよう。赤字で書かれている名前が、アングロサクソン七王国と呼ばれる国々で、ブリタニア(ウェールズ)とはマーシアやノーサンブリアが国境をなして、頻繁に戦いが起きていたんだ。その戦いで、活躍した人物がいたんだ。
※アングロサクソン七王国。北から主に、ノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスの国々で構成されていた(Wikipediaより)
アーサー王?
アングロ・サクソンとブリタニアとの戦いについては、ヘンギストとホルサ兄弟がケント王国を作った時代に戻る。アングロ・サクソンの拡大する勢力を止めようと、ヘンギストとホルサ兄弟や後継者に挑んだ人物がいた。アンブロシウス・アウレリアヌス(Ambrosius Aurelianus)という人物である。
アンブロシウスは、悪王ヴォーティガンを倒した後、ブリタニア長官となり、今度はヘンギストとホルサ兄弟が率いる、アングロ・サクソン族と戦ったのである。
ヘンギストとホルサ兄弟を北へ追いやり、マエスベリの戦いやコインスバラの戦いで撃破し、彼らの息子たちオクタとオスラをヨークで包囲するなど勝利をつづけた。
アンブロシウスのアングロ・サクソンに連戦連勝した様子が、アーサー王のモデルになったのではないか、という説もある。
アンブロシウスの活躍は一時的で、アングロ・サクソン族の勢力拡大を止めることはできなかった。
ウェールズ王 vs アングロ・サクソン王
カドワロン像(ウィキペディアより)
拡大を続けるアングロ・サクソンとブリタニアとの争いも起こっていた。その中で、ウェールズにゆかりの深い事件を紹介しよう。
アングロ・サクソン七王国のひとつ、ノーサンブリア国北部デイラ(Deira)にエドウィン(Edwin)という王子がいた。
6世紀の終わりごろ、エドウィンは南部バーニシア(Bernicia)のエセルフリス(AEthelfrith)に攻められ国を脱出し、放浪の末ウェールズ(ウェールズ北部の国、グウィネズ)にたどり着いた。
当時のグウィネズは、カドヴァン(Cadfan ap Beli)や息子カドワロン(Cadwallon ap Cadfan)という統治者がいて、ブリタニアの小国全体を束ねる王としても支配力を持っていた。
幼くして国を脱出し身寄りのないエドウィンを可哀そうに思ったカドヴァンは、エドウィンを引き取り息子カドワロンと一緒に育てた。
ところが、エドウィンはカドワロンとはそりが合わず、ライバル心を燃やす様になったのだ。
成長したエドウィンは自国に戻り、イースト・アングリア国の援助を得て、エセルフリスを倒しノーサンブリア国を奪回した。
そして更に、ノーサンブリアの領土を西に広げ、アングロサクソン一国ケントとも同盟を結んだ。627年頃、エドウィンはアングロ・サクソン諸国の中で、最も権力を振るうようになった。
ウェールズに恩を感じていたエドウィンは、カドヴァンがいるうちは大人しくしていたが、カドヴァンが亡くなると、後を継いだカドワロンに対するライバル心を再燃させた。
勢いに乗るエドウィンは629年にウェールズに攻め入り、カドワロンを国外に追放し、グウィネズを乗っ取ったのだ。
これに対しカドワロンは、いったんフランスに逃れて兵を集め、さらもう一つのアングロ・サクソンの強国マーシアのペンダ王(Penda)の助けを借りた。
そして、632または633年にカドワロンとペンダ連合軍はエドウィンに戦いを挑んだ。
そして、ハットフィールドの戦いでエドウィンを倒し、カドワロンはウェールズを取り戻したのである。
ウェールズと侵略者のアングロ・サクソンは争いばかりと思ったんですけど、カドワロンとペンダのように手を組むこともあるんですね。
アングロ・サクソン諸国の中でも勢力争いはあり、利害関係を同じくする国同士は、カドワロンとペンダの様に同盟することもあったんだよ。
ペンダ王との同盟でカドワロンは勢いに乗ったけど、乗り過ぎてしまったようだ。
カドワロンはノーサンブリア国を約1年統治しまいしたが、調子にのって暴君化してしまう。ノーザンブリアの人々が恐れるほど、残忍・残虐な手段で殺戮や略奪をしながら進軍し、アングロサクソンの国々を荒らしていった。
ノーサンブリアは必死になってカドワロンを止めようと総力上げた。しかし、簡単にはカドワロンの勢いを止める事は出来ず、惨敗が続いた。
たまりかねた人々は、エドウィンによってダル・リアダ(現在のスコットランド西部)に追放されていたエセルフリスの息子オスワルドを呼び戻した。
そして、634年のヘヴンスフィールドの戦いで(現在のイングランド北部)、ついにカドワロンはオズワルドに敗れる結末となり、事態は収束したのである。
最後のブリタニア長官
最後のブリタニア長官、カドワラドル像(ウィキペディアより)
カドワロンが敗れた後、ウェールズはどうなってしまうのでしょうか。
暴君化したカドワロンが戦死すると、ウェールズは混沌としてしまうんだ。これまで、中心的なグウィネズ国はキネダの子孫が統治者を受け継いできたが、隙をついてカドヴァエルという農民男が現れ、統治者の座を奪ってしまったんだ。
ウェールズでは国は王室以外の人間に奪われ、疫病がはやり飢饉も起こった。当然、アングロ・サクソンの攻撃にもさらされただろう。
人々は絶望の中を暮らし、アーサー王のような救世主が現れないだろうかと願ったのだろう。
カドワロンには、息子カドワラドル(Cadwaladr ap Cadwallon)がいた。国を奪われたカドワラドルは海外に脱出し、いつかは宿敵カドヴァエルに復讐してグウィネズを奪回しようと考えていた。
しかし成人したカドワラドルは、我欲のために戦争を起こすと更に国が乱れるだけだ、と考えた。復讐の道を断念して、聖人の道へ進む決意をしたのである。
グウィネズの王族として初めてローマ巡礼をして教皇に会い、ウェールズの平和と復興を願い祈り続けた。
復讐を諦めウェールズの平和を願い日々祈るカドワラドルの姿を見聞きして、ウェールズの人々は大きく心を打たれた。
カドワラドルを救世主と信じて心の支えとし、苦しい生活の中を耐えしのいだのだ。
そして、カドワラドルの息子イドワルは成人になるとウェールズに戻り、655年にイドワルは反逆者カドファエルを倒して、国を取り戻したのである。ウェールズは再び平和を取り戻し、カドワラドルが統治者としてウェールズを治めた。
しかし、すでにアングロ・サクソン諸国の勢力が拡大して、かつてブリテン島のほぼ全域を占めていたブリタニアは、西のウェールズや北のスコットランドに残るのみとなってしまった。
ブリタニアの呼び名もこの時期で終わりとなり、カドワラドルが最後のブリタニアの王となった。
※カドワラドルはウェールズの英雄の一人として語り継がれている。カドワラドルが軍旗に用いたとされるレッドドラゴンが、後にウェールズの国旗として用いられるようになった。
ブリタニア時代のまとめ
この時代の出来事を年表にまとめた
・410年:ローマ帝国のブリタニア撤退
・420年頃:ヴォーティガンが南部ブリタニアの長官となる
・440年頃:キネダ一族が北部よりウェールズに移住。キネダがグウィネズを建国
・449年:ヴォーティガンが、ジュート人のヘンギストとホルサ兄弟を呼び寄せる
・455年:ヘンギストがケント王国を建国し、アングロ・サクソン諸国の侵略が始まる
・488年頃:アンブロシウスが活躍し、ヘンギストを破る
・517年頃:マエルグウィンがウェールズの統治者となる
・586年頃:ノーサンブリアのエドウィンが、ウェールズのカドヴァンに助けられる
・632~633年:ハットフィールドの戦いで、ウェールズのカドワロンはノーサンブリアのエドウィンを破る
・634年:カドワロンはオスワルドに敗れる
・655年:カドワラドルは簒奪者カドヴァエルからウェールズを取り戻す
・664年 or 682年:アングロ・サクソン諸国が強大化し、ブリタニアの終焉
参考記事)
※記事一覧
※悪王ヴォーティガンに関する記事
※ケント王国を作ったヘンギストとホルサ兄弟について
※ウェールズの創始者キネダに関する記事
※悪魔のようなマエルグウィンに関する記事
※最後のブリタニア王、カドワラドルに関する記事
つづく
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