戦乱続きの中世初めのウェールズでは、小国に分かれてバラバラに統治していました。今回は大王と呼ばれる英雄がウェールズを統一した時代(9世紀前半~10世紀中盤)のお話をします。
※簡単なウェールズ歴史年表。今回の話は7世紀後半~9世紀前半になります
※全体の記事
忍び寄る新たな外敵の圧力
前回の第2章で話したように、メルヴァンの活躍によってウェールズは窮地を救われ、平和を取り戻しつつあったんだ。しかし、外敵は変わらずウェールズを襲っていたんだ。
まだまだ、アングロサクソンのマーシアからの攻撃は続くんですか?
この時代になると、イングランドの状況は大きく変わり、ウェールズを襲う外敵の脅威にも変化が現れるんだよ。
※赤字がアングロサクソン7王国
8世紀末に最大勢力を誇ったオッファ王のマーシアは勢力を落とし、8世紀初めから中頃にかけて南西部のウェセックス(Wessex)が急に勢力を伸ばしていた。
エグバート王(Egbert)の時にはマーシアを支配下に置き、イングランドに置いて最大の権力を振るうようになった。ところが、ウェセックスやマーシアにとっても新たな脅威が現れたのである。
8世紀の終わりごろからは、イングランドの東岸にはデンマークやノルウェーからヴァイキングが出現し、略奪行為をはたらくようになった。
9世紀中ごろになると、ヴァイキングは物品の略奪だけでなく、領土も奪うようになり、広大な領土を占領し統治を脅かすようになったのだ。
10世紀の初めの頃の地図を見ると、ヴァイキングはデーンローと呼ばれる黄色い部分の領土を奪い、イングランドの約3分の1以上を手中に入れたのだ。
※10世紀初めごろの勢力地図(黄色い部分がヴァイキングの領土)
England and Wales AD 900-950より
かつてはケルト系ブリトン人のブリタニアを侵略したアングロ・サクソン族が、今度はヴァイキングによって侵略され始めた。
ヴァイキングは強く、イングランドは窮地に立たされ、ウェールズもヴァイキングの攻撃を受けることになる。
ウェールズもヴァイキングに占領されたのか?
内乱続きで小国に分かれていたウェールズは、外敵と戦うには、まず国を統一し安泰にする必要があったと思うんだ。イングランドの脅威にも、ヴァイキングの脅威にも勝てないからね。
強いリーダー的な存在が欲しいですね。
ウェールズに大王現る!!ロドリ大王のウェールズ統一
ロドリ大王の像(ウィキペディアより)
9世紀頃のウェールズでは、領土や財産は自分の息子たちに均等に分けることがしきたりであった。
このためか、四国ほどの面積しかないウェールズは小国に分かれ、その小国も分割されていき、ウェールズ全体が統一されることはなかった。
代を経るごとに領土は分割されていくので、持ち分が小さくなっていく。このため、争いや内乱が頻繁に起きるようになっていったのである。
そんな中、この時代になってようやくウェールズのほぼ全域を統一した、大王と言われた人物が現れたんだ。
戦国時代の天下取りみたいで面白そうですね。やはり戦いに明け暮れて、勝利を勝ち取った武将のような人物でしょうか。
ウェールズを立て直したメルヴァンにはロドリ(Rhodri ap Merfyn)と呼ばれる息子がおり、844年にロドリはメルヴァンの後を継いで、グウィネズの統治者となった。
最初はメルヴァンから受け継いだグウィネズだけを統治していたが、ロドリの叔父カンゲンが治めていた隣国のポウィスも、855年からロドリが統治をするようになった。
ウェールズ南西部にはセイサルウィグ(Seisyllwg)という国があり、グワゴン(Gwgon)と言う人物が治めていた。
ロドリの妹アングハラドとグワゴンとの婚姻によって、ロドリはセイサルウィグと同盟関係を築いたのだ。
グワゴンには息子がなく、872年に亡くなると、ロドリがセイサルウィグの領土を後継した。
こうしてロドリは戦うことなく平和的にウェールズの大部分の領土を統一することに成功したのである。
※Gwynedd、Powys、Seisyllwgの緑色3つがロドリ大王が治めたウェールズの領土(南西部の小国群を除く。ウィキペディアより)
なるほど。ロドリは婚姻関係を上手く利用して、勢力範囲を広げたのですね
ロドリは戦いは避けたかったと思うんだ。戦乱期のような内乱状態となると、国力が下がってしまうんだ。そうすると、外敵に狙われやすく侵略される恐れがあんだよ。
勢いを増しているアングロサクソン七王国の一国ウェセックスや、支配下にはいったマーシアがいるし、北からヴァイキングがやってきて領土拡大を狙っていたしね。
外敵ばかりで気が休まらないですね。それだけ外敵の脅威があれば、ウェールズの国は団結して立ち向かう必要がありますね。
ヴァイキングはアングロ・サクソンの領土を相当占領してましたけど、ウェールズも占領されたのでしょうか?
ウェールズ対ヴァイキング
ウェールズもヴァイキングの攻撃を頻繁に受け、特に沿岸付近はヴァイキングに悩まされていた。
そして、856年にヴァイキング関連で、これまでのウェールズ史上最大の事件が起こるのである。
デンマークで最大の威力を誇るヴァイキングの王、ゴルム(Gorm)が自ら軍を率いて、ウェールズに攻め込んできたのである。
ロドリは国内では積極的な戦いはしなかったようであるが、武力にも優れていたと考えられる。ロドリはヴァイキング軍と果敢に戦い、ゴルムを倒して国をウェールズを守ったのである。この戦いでゴルムは戦死し、バイキングに苦しんでいたアングロサクソン諸国からも大いに喜ばれた。
この戦いの後も、略奪行為や小さな争うはあったものの、ヴァイキングがウェールズを侵略して領土を支配することはなかったようだ。
ヴァイキングを倒しウェールズの大部分を統一したロドリは、ロドリ大王(Rhodri the Great)と呼ばれるようになったんだ。
ロドリの紋章
イングランドはヴァイキングに領土を占領されたのに、どうしてロドリ大王はヴァイキングを撃退できたのでしょうか?
僕の意見だけれど、いくつかの理由が考えられるんだ。ヴァイキングの戦い方は、
①密かに海から船でやって来て上陸し
②船ごとのグループに分かれて集落などを急襲し
③盾と斧のような武器を使って接近戦で相手を圧倒する、という戦い方なんだ
一方、ウェールズの戦い方は、
①地形を上手く利用して相手をおびき出し
②茂み隠れたりして急襲し
③ロングボウという遠距離から放つ強力な弓で圧倒してやっつける
という戦い方なんだ
なるほど。戦い方は違うけど、急襲ってところは似てますね
ウェールズ軍は知り尽くした地形を利用して、ヴァイキングを待ち伏せし、ロングボウで遠距離から急襲してくるので、接近戦のヴァイキングにとって戦いにくかったんじゃないかな。
また、イングランドとは違って、山岳地帯が多いウェールズは、海からやってくるヴァイキングにとって攻めにくかったと思うよ。
合点
ウェールズの強化策
強敵を抑えたロドリは、ウェールズ内の国づくりにも尽くした。
安定した国が続くように、ロドリは生きているうちに息子たちに国を分配して、各国の強化と結束を図ったのだ。
長男アナラウドを筆頭にグウィネズ(Gwynedd)、次男カデルにはセイサルウィグ(Seisyllwg)、三男メルヴァンにはポウィス(Powys)を与えて、協力してウェールズを統治させようとした。
※ロドリ大王と息子たちの家系図
ロドリ大王から領土を受け継いだ、アナラウド、カデル、メルヴァンの息子たちはお互い協力しあい、「ブリテン島の三王」と呼ばれるほど、名をとどろかせた。
日本で言う、毛利元就の「三本の矢」のようですね。
ところが、「ブリテン島の三王」の結束は、長くは続かなかったんだよ。
マーシアの攻撃に倒れる
アングロサクソン七国の一国であるマーシアは、南西部のアルフレッド大王が率いる強国ウェセックスの支配下にあった。877年にマーシアのセオルウルフ王がウェールズを攻撃してきたのだ。
※アルフレッド大王:ウェセックスの王で、アングロサクソン諸国がヴァイキングに征服されかかった時に、ヴァイキングを打破しアングロ・サクソン諸国を守った歴史的な英雄
※ウェセックスのアルフレッド大王像
ロドリ大王はセオルウルフ率いるマーシア軍に敗れるも、辛うじて脱出した。しかし、マーシアの傘下に入るのを拒否すると、再びマーシアに攻められ戦死してしまったのである。
これに対して「ロドリのための神の復讐」と呼ばれる戦いが起こった。ロドリの息子たち、アナラウド&カデル&メルヴァン三兄弟は結束を強めて抗戦し、881年にマーシア軍を撃退したのだ。(コンウィの戦い、Battle of Conwy)
ロドリ大王が戦死したのはとても残念ですが、三兄弟が協力してマーシアに勝てたのは良かったですね。
「ブリテン島の三王」の活躍でウェールズは国を守ったけれど、再び戦乱の世が訪れてしまったんだよ。
息子たちの乱
野心を燃やす長兄アナラウドは、何とヴァイキングと手を結びマーシアを攻めたんだ。これはうまくは行かず同盟は破棄され、アナラウドはヴァイキングを見限って、ウェセックスのアルフレッド大王と同盟を結んだ。
すると今度は、アナラウドの標的は次男カデルに向けられたのである。アナラウドはカデルの領土を狙ってデハイバースに攻め込んだのだ。
一方、攻められた次男のカデルも黙ってはいなかった。アナラウドに領土の南まで侵略されたが、もとの国境まで攻め返した。さらに、カデルは三男メルヴァンをも攻め、ポウィスを奪っていった。
こうしてアナラウドとカデルの対立は深まっていったのである。
アナラウドを創始者とする家系をアバファラウ家、カデルを創始者とする家系をディナヴァウル家と呼び、ウェールズの王家は分裂したのであった。
※三兄弟の対立
せっかく「ブリテン島の三王」と呼ばれたのに、ロドリ大王の願いと努力は水の泡ですね。また、戦乱の世の中に逆戻りとは残念です。
孫たちの乱
「ブリテン島3兄弟」の時代が終わると、長兄アナラウドの後は息子イドワル・ヴォエル(Idwal ap Anarawd、通称 Idwal Foel)が継ぎグウィネズを治めた。
イドワルもアナラウドと同じように、当時のウェセックス王のアゼルスタンと同盟を結び、アゼルスタンに忠誠を誓った。
一方、次男カデルの後は息子ハウェル(Hywel ap Cadell)が継ぎセイサルウィグを治めた。ハウェルはウェールズ南西端のダヴィッド国の統治者ラワルヒの娘と結婚した。
ラワルヒが亡くなるとダヴィッド国を奪い、セイサルウィグと合わせてデハイバースとし、領土を広げた。
アナラウドとハウェルは、やはり争いあったのでしょうか。
アナラウドとハウェルの関係のキーポイントは、イングランドにあるんだ。イングランドの関係によって、二人の関係は大きく変わっていくんだよ。
当時は、ウェセックス王のアゼルスタンは、当時最も勢力を持っていた。イングランドとして初代王となり、イドワルや他の国にも忠誠を誓わせ、大きな影響力を持った。
そしてイドワルに続いてハウェルも、アゼルスタンと同盟を結んだのだ。
ハウェルは何度もアゼルスタンの元に通い、造幣所を借りて銀貨を作るなど、アゼルスタンと親密な関係を築いた。この親密さがイドワルの妬みを生み、ハウェルとイドワルの関係を悪くしていった。
イドワル=同盟=アゼルスタン=同盟=ハウェル
\______いがみ合い______/
アゼルスタンが亡くなり、エドムンドがイングランドを後継すると、ハウェルは引き続きエドムンドと同盟を結んだ。
ところが、イドワルはハウェルの権力増大を恐れ、逆にイングランドに戦争を仕掛けたのだ。
イドワルはエドムンド王に敗北し、その隙をついてハウェルはイドワルの領土グウィネズを奪い、再びウェールズのほぼ全域を統一したのであった
再び大王現る
ハウェル・ザ・グッド王
親族の争いによって勝ち取った統一。ん、何とも言えませんが、再びウェールズは纏まったのですね
束の間ではあったけど、ハウェルはウェールズの黄金期を作ったんだ。そして、ハウェル・ザ・グッドと呼ばれたんだよ。
グッド王ですか?ハウェルは、どんなグッドな事をしたのでしょうか?
※ハウェル・ザ・グッド(Hywel the Good )、ウェールズ語ではハウェル・ダ(Hywel Dda)
武力争いが起きてしまったことに、ハウェルにも反省する点があった。ハウェルは若いころは暴力的な面を持ち争いを起こしがちだったけれど、改心しウェールズの平和に貢献しようと考えた。
ハウェルは平和を維持するためには仕組みを作る必要があると考えた。慣習やしきたりはあったものの、統治者たちが国を統治したり、領主が土地を守ったり後継したり、人々が争いを起こすことなく安心して暮らせる、文書化された法律がウェールズにはなかった。
そこで、ハウェルはローマに出掛け、最新の法律を学び、更にヨーロッパ、イスラム、ギリシャ、アラブ、ラテン諸国の法律も学び良いところを結びつけて独自の法律を作った。
その法律のポイントを記す。
・領土は非嫡子を含む息子たちに均等に分けられる
・死刑は禁止。しかし罪を犯した親族は7世代に渡って被害者に償いをする
・臭い口臭、重病、セックスレスの夫とは離婚できる
・7年以上結婚生活を続けていれば、夫の財産の半分を得る権利がある
犯罪、財産、相続の内容から女性の自由と権利まで決められている現代的な法律だったんだよ。
本当ですね。中世とは言え、ハウェルは先見の目があったかも知れませんね。
こうして、ハウェルはウェールズを統一するだけでなく、政治と社会の規律を作り、国としてのレベルを向上させ平和に貢献したんだよ。
だからハウェル・ザ・グッドと呼ばれたのですね
※ハウェルの作ったウェールズ法は「ハウェル・ザ・グッドの法」とも呼ばれ、その後ヘンリー8世に書き換えられるまで約600年にも及び効力を発揮した。当時では最新の法律で、イギリスにおける法律の基礎となった。
※ハウェル大王に関する記事
※英語とウェールズ語ですが、ハウェルについて簡単に纏められた本です。
参考記事)
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つづく
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