こんにちは、たなかあきらです。(19.12.30更新)
今回のお話は「マグナ・カルタ」です。
マグナ・カルタとは、13世紀のイングランドで制定され、ウェールズではイングランドに奪われた領土や人質が返ってくるなど、大きな影響を及ぼしました。
マグナカルタは自由の大憲章ともいわれ、全文63ケ条からなり王の権力を制限し個人の権利をうたった、憲法史の草分け的な存在です。2009年にはユネスコの「世界の追憶」にも登録されました。
マグナ・カルタはどのような目的で作られ、どんな内容だったのでしょうか?
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なぜマグナカルタが作られたの?
募るジョン王への不満
マグナカルタを制定したのは誰なのですか?
最初にマグナカルタの制定を承認したのは、イングランド王のジョン王なんだ。なぜ、ジョン王がマグナカルタを制定するに至ったのか、背景を話そう。
1214年にジョン王は、フランスのブーヴィーヌの戦いで、フランス軍に敗北したんだ。イングランド軍はジョン王から軍役代納金として頻繁に税を徴収されており、イングランド国内の諸侯の間に大きな不満が募ったんだ。
さらにジョン王はイングランド教会とも関係が悪くなるんだ。カンタベリー司教を決めるときに、ジョン王はステファン・ラングドン(Stephen Langton)の選出に反対し、ローマ教皇から、イングランドに住む人は洗礼などの禁止、聖域での埋葬など、事実上の教会機能の停止を言い渡されたんだ。
こうしてジョン王は1209年にローマ教皇イノセント3世(インノケンティウス3世)に破門され、教会機能の停止はジョン王が1213年にイングランド君主の地位を、教皇に差し出すまで続いたんだ。
イングランドの人々にとって、国はとられキリスト教の活動も制限され、大きな屈辱じゃないですか。その元凶がジョン王なら、人々はジョン王を恨みますね。
「マグナ・カルタ」の制定を
貴族たちのジョン王への不満は頂点に達したんだ。貴族たちは集まり、イングランド王国が不公平を強要される悪い習慣を排除する、と約束した自由憲章を認めることを、ジョン王に迫ったんだ。(1100年にヘンリー1世が制定)
しかしながら、ジョン王は貴族たちと会うことを拒絶したため、貴族たちはジョン王への忠誠を放棄して、ロンドンを占拠したんだ。
ん~、なるほど。ジョン王は悪王と言われるだけあって、貴族たちから大きな不評を買っていたんですね。
さすがにジョン王でも、ロンドンが貴族たちに占領されてしまったら、貴族たちとの交渉をする以外に手立てはなかった。貴族たちの要求は文書に記録され、議論の末に、ジョン王からマグナカルタが制定されたのです。
つまり、マグナカルタが制定された背景とは、悪政を続けるイングランドのジョン王と反対する貴族たちの間で起きた政治的な危機を解決するために、1215年にジョン王が仕方なく制定したんだ。
マグナ・カルタの内容
マグナカルタはどんな内容でしょうか? どんな点が優れていて現在にも影響を与えているんですか?
マグナカルタの原則である王を含め誰もが法に従うという点が、王が権力をふるっていた中世では新しい点なんだ。
制定してから10年の間に、3分の1が削除されたり大幅に書き直され、殆どの条項が現代版に置き換えられたが、マグナカルタはイギリス憲法の土台として欠かせないものとなったんだ。
マグナカルタは最初に制定された時、63項あったがその中で重要な項目が、以下の3つなんだ。
・誰もが自由とイギリス教会の権利を守る
・ロンドンや他都市の自由と風習を守る
・全ての自由民は公平であり、公正な裁判が行われる
もっとも有名なのが3つ目の39条で、詳しく書くと下記になるよ。
「公平な法的裁判や領土に関する法の裁きは除き、自由民は誰も捕らわれたり投獄されたり、権利や所有物を奪われたり、犯罪者扱いされたり、追放されたり、地位を奪われたりしない。我々は誰もが自由民に対して強要を続けないし、強要しようと誰かを送る事もない。私たちは誰もが権利や公平さを売り買いしない、拒絶も遅延もしない」
No free man shall be seized or imprisoned, or stripped of his rights or possessions, or outlawed or exiled, or deprived of his standing in any other way, nor will we proceed with force against him, or send others to do so, except by the lawful judgement of his equals or by the law of the land. To no one will we sell, to no one deny or delay right or justice.
その他の項では様々な苦情に対処する内容が書かれているんだ。
・領土の所有に関する事
・公正な仕組みの規則
・現在にはない中世の税について(軍役代納金、土地の賃貸借や農地の所有権)
・テムズ、メドウェー、イングランド全体で、魚を取るためのやなの撤去
・王室使用人の解雇について
・様々な重さや測量の標準化
更にマグナカルタでは、支配している貴族と教会の聖職者による、共通の同意がなければ、税は要求されないと、示した。また、個人の生活が脅かされないように失われた特権を取り戻し、犯罪には厳しい罰を課した。未亡人に関する項目もあり、意思に反して無理やり再婚させられない事を認めたんだ。
マグナカルタは効果的に機能したの?
人の権利を守るという素晴らしいことが書かれたマグナカルタは長く続いたんですか?
いいえ、残念ながら上手くは行かないんだ。ジョン王はマグナカルタに同意し貴族たちは改めてジョン王忠誠を誓ったんだ。しかし、この解決策は全く続かなかったんだ。
ジョン王は、イングランドとアイルランドの君主を務めていたローマ教皇に手紙を送り、マグナカルタが無効になるよう頼んだんだ。
そうしたところローマ教皇は、マグナカルタは、王室の権利やイングランドの人々を辱める法に反する内容で、法的な合法さに欠け無効であり、「違法だ」と文書に表したんだ。
最初から、ジョン王はマグナカルタの内容が認められないことを狙って、受け入れたような気さえしますね。これじゃあ、また争いに戻っちゃいますよね。
マグナカルタの停止に腹を立てた貴族たちは、再びジョン王への忠誠を放棄し、フランスのルイ王子をバックにし、ジョン王との戦いが始まったんだ。1216年、ルイ王子率いるフランス軍はイングランドに侵入したんだけれど、ジョン王は赤痢にかかり戦いの最中に亡くなったんだ。
その後マグナカルタはどうなったのか?
そもそも論で、マグナカルタには問題があったんだ。マグナカルタが権利を認める自由民は、中世のイングランドではごく少数の人々しかいなかった。大多数の人々は領主のために働く自由のない農民、いわゆる農奴で、公平さは領主が決めるものであった。
そのためか、マグナカルタは1215年の時点では特に重視されるものではなかった。しかし、マグナカルタの本質は、時代を経ながらそれぞれの目的に置き換えられ、受け継がれたんだ。
ジョン王の後継は息子のヘンリー3世で、王になったときはわずか9歳だったんだ。貴族たちのサポートを得るためにマグナカルタは書き換えられるんだけど、ヘンリー3世が18歳の時、1225年に新バージョンのマグナカルタが制定されたんだ。
そして、1297年のエドワード1世の時に、ヘンリー3世が改定したマグナカルタを委任立法の中に入れたんだ。
※委任立法:法律の委任に基づき立法府以外の機関が,本来法律で定めるべき事項について立法を行うことを定めた法律
17世紀になり、チャールズ1世に対して清教徒革命が起きたとき、エドワード・コーク卿は、王室の権力を制限しマグナカルタを取り入れた、権利の嘆願書(Petition of Right)を作った。チャールズ1世は反論するものの、公正さを遅延させることを禁止するマグナカルタに反すると批判され、チャールズ1世は議会派に敗れたんだ。
※議会と対立し捕らえられたチャールズ1世は処刑される
何と、清教徒革命にマグナカルタが使われていたなんて驚きです。歴史的な事件などにも、マグナカルタの考え方は利用されているんですね。
アメリカ合衆国が建国された当時の憲法にもマグナカルタが生かされているんだ。ジョン王が制定した当初のマグナカルタは、多くの部分が無効になったり、他の法制にとって変わられたりしたものの、マグナカルタはイギリスの権利の基礎として重要な位置づけを担っているんだ。
マグナカルタは、中世の独裁政治や独裁者から守り個人の権利を保証するためのシンボルとして力を持ち続けているんだよ。
※今回のストーリーはこのアニメに沿ってます(英語です)
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最後まで読んでくださり有難うございました。
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