(写真:オッファの土塁)
こんにちは、たなかあきらです。前回はウェールズを含むブリタニアのローマ支配が終わり独立を取り戻した、「ブリタニア時代」のお話でした。外敵の脅威にさらされながらもウェールズ王室は作られたものの、アングロ・サクソン族の侵略により領土は大きく縮小していく内容でした。
今回お話しするのは「戦乱時代」と呼んでいる時代です。後継争いの内乱とアングロ・サクソンからの侵略の、2つの戦乱のために、ウェールズ内が大いに混乱した時代についてのお話です。
この時期に、ウェールズ、イングランド、スコットランドの国境が、ほぼ現在と同じ付近に形成されたのです。
※第1回ウェールズの歴史概要
※第2回、ローマ時代
ローマ帝国に支配されてたウェールズ(ブリタニア
※第3回、ブリタニア時代
簡単なウェールズ歴史年表。今回の話は7世紀後半~9世紀前半になります
内からも外からも、ウェールズで戦乱が続いた時代
戦乱時代はどんな時代だったのですか? 日本の戦国時代の様に、領土の奪い合いや下剋上などが起きた感じだったのですか?
内乱は戦国時代に似ているところもあるな。ウェールズで英雄的なカドワラドルと息子イドワルの時代は比較的安泰だっと思うけど、8世紀に入ると状況は深刻になっていくんだ。
・アングロ・サクソンの強国、マーシアからの脅威にさらされて、ブリタニア時代の時よりもさらに領土を狭めていくウェールズ(外敵から攻められる)
・後継争いや権力争いのため、つよい指導力をもった統治者が不在となり、内乱時には下剋上も勃発し、国が大いに乱れたウェールズ(内乱で乱れる)
という感じだな。
内からも外からも攻められ、ウェールズの人々にとっては大変不安な時代だったんですね。
押し寄せるアングロ・サクソンの国マーシア、退くウェールズ
アングロ・サクソン族の領土拡大を振り返ってみよう。
400年中頃から西岸よりアングロ・サクソン族の侵入が始まり、西方や北方に領土を広げていった(緑色の部分)。
600年頃になるとブリトン人の国々は西と北に追いやられ、ブリテン島の大部分を占領するようになり、650年~700年になると更に西へ国境を広げていき、北部のノーサンブリア王国が最も勢力を広げるんだ。
700年を過ぎると、今度は中央部のマーシア王国が幾つかの国をまとめると共に、さらに西へと領土を広げ、勢力を広げるんだ。
アングロ・サクソン七国のうち、そのマーシアが最もウェールズとの国境を共有していて、ウェールズの中心的な国グウィネズの隣のポウィスは、650~700年の間に東半分パングェン(Pangwern)を取られ、常にマーシアからの圧力を受けて縮小していたんだ。
※地図の9、10、14、19、20、21などの国境付近のウェールズの領土は、マーシアに占領されていった。
このままじゃ、ウェールズはマーシアに占領されちゃいますよ。マーシアの勢いは、ずっと続くんでしょうか。
さらにマーシアは勢いを増すんだ。8世紀の中頃、マーシアの王はオッファ(Offa)と呼ばれる強力な王が登場するんだ。領土を拡大し、アングロ・サクソン七国のなかでマーシアが大きな勢力を誇るようになったんだよ。
占領した領土を守るためなのか、さらにウェールズに攻撃を仕掛けるためなのか、良く分かっていないけど、オッファ王はウェールズとの戦いに備えて、全長283㎞にも及ぶ土塁を建築したんだ。
この土塁は、オッファの土塁(オッファの防塁、Offa’s Dyke)と呼ばれ、現在も残されているんだ。
283km、すごい。更にウェールズは、厳しい状況に立たされるんじゃないですか。
オッファ王の時にマーシアは最大勢力をもったんだが、オッファ王が亡くなると急に勢力を落とし、南西のウェセックスに攻撃を受けて衰退したんだ。ウェールズにとってラッキーかも知れないが、この時期でほぼマーシアのウェールズ侵略も弱まったと考えられるんだ。もう一度、この地図を見てみよう。
オッファの土塁のラインは、現在のウェールズとイングランドの国境におおよそ一致しているんだよ。この時期に作られたオッファの土塁によって、ウェールズとイングランドの国境はほぼ形成された、と考えても良いかもしれないな。
戦乱時代のウェールズへ
世紀末なのかウェールズ
マーシアからの侵略に苦しんでいたウェールズだけど、ウェールズの国内はどんな状況だったんですか?
残念ながら、追い打ちをかけるようにウェールズの国内でも苦しみは倍増していたんだ。
・オッファの土塁を越えてマーシアに攻め込まれる不安な社会
・牛の伝染病がはやり家畜はどんどん死んでいく
・ウェールズの最強国グウィネズ王宮に雷が落ち焼失
外敵に伝染病、食糧不足に不吉なできごと。ウェールズの世は、まさに末ですね。アーサー王のような救世主が出てきてほしいですね。
それに追い打ちをかけるように、下剋上や後継争いの激しい内乱が起きてしまったんだ。まさに、王室は世紀末になっていくんだ。
下剋上と権力争いの内乱
下剋上
ウェールズで最大勢力を誇るグウィネズ国では、5世紀の中ほどにキネダ・アプ・エダンが王室を作ってから、基本的にはその血筋が国を統治していたんだ。しかし、8世紀初め頃、王室の血筋から離れた人物が統治したんだ。カラドグ(Caradog ap Meiron)という人物が、統治者になったんだよ。
※7世紀途中にも1度、部外者に奪われたことがあった。
カラドグは、武力を使って統治者の地位を奪いとって、下剋上を起こしたのでしょうか。
カラドグがなぜ統治者になったのかは明らかではないが、次の理由が考えられるんだ。
・ウェールズでは王室の血筋であっても統、治者になるためには家臣たちの同意が必要で、無能な人間は統治者になれなかった。王室の血筋では、ふさわしい人物がおらず、カラドグが適任と考えられた。
・ウェールズでは所有する領土は、息子たちに均等に分けられる風習がある。公平なシステムであるが、代々経ていくと自分の領土がどんどん狭くなるデメリットがある。このため、しだいに領土争いが起こるようになった。カラドグは自分の領土を広げるために、統治者の領土を奪った。
なるほど。カラドグは奪ったのか、選ばれたのか、どちらのケースと思います?
僕は、カラドグが武力行使して奪ったのではなく、統治者として選ばれたのではと思うんだ。というのも、カラドグは40年以上もグウィネズの統治者を務め、王室の人物からの報復戦争はなかった様子だからね。
じゃあ、カラドグが統治者になって、ウェールズは平和になったのでしょうか。それとも乱れたのでしょうか。
ウェールズは平和になったわけでは無さそうなんだ。カラドグが統治した時代は、アングロ・サクソン族の強力国マーシアのオッファ王の攻撃が最も激しい時期で、カラドグもアングロサクソンとの戦いで命を落としたんだ。
その後は、もう一つのケース、後継争いによる内乱が激しく続くんだよ。
激しい内乱によるウェールズの荒廃
カラドグがアングロ・サクソンとの戦いで命を落とすと、グウィネズの統治者には王室の人間にもどり、カラドグの前任者の息子、コナン(Cynan ap Rhodri)が後継したんだ。ところが、これに不服を持った人物もいたんだ。
これは、権力争いのにおいが、ぷんぷんしますね。
ウェールズでは、これまで権力争いは、殆ど起きていなかったんだけど、この時期以降数百年に及び、権力争い、後継争いによる、内乱が頻発するようになるんだ。
その皮切りがこの争いだ。コナン 対 ハウェル。
第一ラウンド:
7世紀の中頃、ウェールズ最強の国グウィネズの統治者は王室以外のカラドグになった。カラドクがアングロ・サクソン軍との戦いで戦死した後、798年に前任の息子コナンが統治者になり、統治者の座を王室に戻した。
第二ラウンド:
ところが、カラドグの息子と言われるハウェルという男が、812年に統治者の座を奪うべくコナンに戦いを挑んできた。ここは、統治者の面目を保ちコナンがハウェルの挑戦を退けた。
第三ラウンド:
しかし、諦めないハウェルは814年に勢いを盛り返して、再びコナンに立ち向かった。今度は、ハウェルがコナンを打ち負かし統治者の地位を奪取した。一方、敗れたコナンはウェールズを脱出し、娘の嫁ぎ先で親類のいる北部のマン島に逃れたんだ。
第四ラウンド:
マン島で体勢を立て直したコナンはウェールズに戻り、統治者の地位を取り戻すべくハウェルを攻撃したんだ。両者は再び激しく戦い、816年ついにコナンは力尽き、ハウェルに敗れて追放された地で亡くなったんだ。ハウェルは奪った統治者の地位を守り、825年までグウィネズを治めたんだ。
※ハウェルはカラドグの息子、またはハウェルの兄弟という説もある
コナンとハウェルの破壊的な争いは812-816までの4年間に及んで続けられ、ウェールズの北部は大きなダメージを受けて荒廃したんだ。この内乱の隙をついて、強国マーシアのコエンウルフはグウィネズ中部を占領して要塞を廃墟にし、ますますウェールズは荒れ果てていったんだ。
結局、王室のコナンじゃなくて、ハウェルが勝ってしまった。そして、ウェールズは荒廃しまさに世紀末。ウェールズなので、アーサー王のような救世主に現れて欲しい。そんな気がしますね。
新たな王室の始まり
疫病に自然災害、ウェールズの権力争いによる内乱、強国マーシアの侵略。ウェールズは荒廃し人々は生きる希望を失っていったんだ。
コナンとハウェルの権力の奪い合いに、人々は愛想をつかし、これまでのウェールズ王室の血筋では世を立て直す器の人物はいない、そう思うようになったんだ。
だれか適任の人物はいたのですか?
コナンとハウェルが争い合ったグウィネズ国の隣、同じウェールズのポウィスも強国マーシアに責められ続け、苦しい時期を過ごしていたんだ。ポウィスも同じく、新しい指導者を欲していたんだよ。ポウィスの王女はマン島にの統治者の家に嫁いだんだよ。
そういえば、コナンとハウェルが戦っていた時、コナンはマン島に嫁いだ娘の元に一旦、逃げたのでしたね。
そうだな。このマン島に現れた人物が、その後のウェールズの歴史のターニングポイントとなり、救世主的な役割を果たしたんだと思うよ。
その人物とは、コナンの娘やポウィスの王女と関係があるんですね。
マン島に住む人々も、ウェールズと同じくブリトン人なんだ。コナンの娘エシリトはマン島の統治者グワリアドど結婚し、息子メルヴァンが産まれたんだ(Merfyan ap Gwariad、別名Meyfan Frychでソバカスのメルヴァンと呼ばれた)。さらにメルヴァンはポウィスの王女ネストと結婚したわけだ。
ポウィスの統治者は、メルヴァンの妻ネストの兄であるカンゲン(Cyngen)で、マーシアのセオウルフに攻撃を受けて苦戦していたんだ。メルヴァンは義兄を助けるため、マン島からポウィスに向かって、共に戦いマーシアを退けポウィスを守ることが出来たんだ。
ポウィスを救ったメルヴァンは、グウィネズも救うということですね。
ウェールズでは統治者の息子達に国を均一に分割して、その中の一人が全体の統治者として後継することがルールだったんだけれど、今の王室では後継出来る器の人物がいない、と方針転換をしたんだ。
ポウィスをマーシアから守った手腕を買われたのか、またウェールズ王室の直系ではくマン島の人物だが王室の血を引いているためか、825年にウェールズ最強の国グウィネズを後継して統治者になったんだ。その後、マーシアはウェールズに攻めてくることはなくなり、平和な時代がようやく訪れたんだよ。
時代が混とんとしてくると現れるのが、アーサー王のような救世主。メルヴァンがその役割だったんですね。
実は、メルヴァンはアーサー王にも影響を及ぼしているらしいんだ。
メルヴァンがアーサー王ですか?
メルヴァンは物理的に国を統治しただけでなく、ウェールズの文化にも大きな貢献をしたと言われているんだ。その面でも救世主かも知れないな。ブリタニアの文化や歴史を後世に残そうとしたんだよ。
メルヴァンは歴史家ネンニウスに命じて歴史書Historia Britonum(ブリトン人の歴史)を書かせた、言われているんだ。ブリトン人の歴史には英雄アーサー王に関する具体的な内容の記述がみられる最古の資料なんだよ。つまりメルヴァンがアーサー王物語の生みの親かも知れないな。
ブリトン人の歴史 – Wikipedia
まとめ
・682年頃:ブリタニアの終焉
・754年:カラドグがグウィネズの統治者となる(王室外の血筋)
・757年:マーシアでオッファが王となる(~796年)。ウェールズとマーシアの国境にオッファの土塁を作る
・798年:カラドグはマーシアのコエンウルフとの戦いで戦死し、コナンがグウィネズの統治者となる
・812年~816年:コナンとハウェルの権力争い。ハウェルがグウィネズの統治者となる
・822-823年:カンゲンとメルヴァンはマーシアのセオウルフの攻撃を撃退する
・825年:メルヴァンがグウィネズの統治者となり新たな王室が始まる
・828年:ネンニウス著のブリトン人の歴史が書かれる
※参考資料
メルヴァンに関する記事
イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 (歴史文化ライブラリー)
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※マーシアに関する情報
※オッファの土塁に関する情報
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