こんにちは、たなかあきらです。
「アーサー王の都」と言えば、「キャメロット」が通説です。
しかし、キャメロットはどこにあるのだろうか?
キャメロットの候補地はいくつか挙げられますが、人々にとって「キャメロットの場所」は長年の疑問で、いまだ分かっていません。
・キャメロットはアーサー王の都なのだろうか?
・アーサー王の都は別の場所なのではないだろうか?
と思うようになりました。
・キャメロットは都でないかもしれない理由
・別の場所とはどこなのか
・新たに遷都説
を提案します。
アーサー王の都はキャメロットである通説
アーサー王の都や宮廷は「キャメロット」にある、と言うのが通説です。
このため、しばしばキャメロットは何処にあるのか?の議論があります。
現在の幾つかの場所が候補に挙がっています。
しかし、僕は疑問を持ちました。
アーサー王の都は本当にキャメロットなのだろうか?
キャメロットをアーサー王の都である前提はよいのだろうか?
今回はアーサー王が描かれている代表的な書物、「ブリタニア列王史」「アーサー王の死」より、アーサー王の都はキャメロットで良いのか?
では何処なのか?考えてみました。
「ブリタニア列王史」にみるアーサー王の都
アーサー王物語の原形と言われている書は「ブリタニア列王史」で、11世紀にジェフリー・オヴ・モンマスが書いたとされています。
※本はこちら👉ブリタニア列王史―アーサー王ロマンス原拠の書
「ブリタニア列王史」でアーサー王(アルトゥールス)が登場する第7部 アルトゥールス王を見ますと、キャメロットは全く登場しません。
都らしき場所はシルケストリアとカールレオンの二箇所です。
シルケストリアの説
15歳のアルトゥールスは父ウーテル・ペンドラゴン王が亡くなった後、シルケストリアで戴冠しました。
シルケストリアは現在のイングランドのシェルチェスターであり、ローマ帝国が支配した時代に要塞があり、政治的や宗教的にも重要なばしょでした。
カールレオンの説
カールレオンはレギオの首都で、現在の南ウェールズにあるカールレオンです。ここもローマ時代の主要な要塞都市でした。
アルトゥールスは大陸に遠征しガリア全土、ローマ帝国を支配下にした後に、ブリタニアに凱旋帰国しました。
その後、聖霊降臨祭と戴冠式をカールレオンで行っています。
「アーサー王の死」に見るアーサー王の都
15世紀後半にトマス・マロリーが書いた「アーサー王の死」は、アーサー王物語の完成版といわれています。
「アーサー王の死」の中では、何ヶ所かアーサー王の都と考えられる場所が登場してますので、時系列で概要を記します。
初期の頃の都、アーサー王が戴冠した時代
・アーサー王はカールレオンのまちで王の戴冠式をすませたあと、
・ベドグレインの戦いの後、敗れた11人の王は仇を打とうと、3
👉アーサー王の都はカールレオンと考えられます
中期の頃の都1、ローマ皇帝を倒し繁栄した時代
・アーサー王はカメロットで大宴会を開き、
・カメロット(英語で言えばウィンチェスター)の表記が登場。
ラーンスロット、パーシヴァル、エクトル・ド・
👉アーサー王の都はカメロット(ウィンチェスター)
中期の頃の都2、ランスロットとグィネヴィアの不倫が疑われる
・聖母被昇天祭の当日、カメロットで大馬上槍試合を開催。アーサー王は家臣を連れてウィンチェスターへ旅立つ。
・カメロットでの大馬上槍試合が終わって、
・ラーンスロットは大馬上槍試合の怪我から全快し、
👉アーサー王の都はロンドンに移った、
後期の都、円卓の騎士が崩壊した時代
当時、宮廷はカーライルにあったとの記述が見られます。
・聖霊君臨祭(大祭典)のために、
ランスロットとグィネヴィアの不倫がアーサー王知るところとなり
・ラーンスロットがグィネヴィアを救い出し、ガレス、
ロチェスターの司教は、
👉アーサー王の都はカーライルに移ったのでは、
今回のまとめ
アーサー王の都は「カメロット」が定説ですが、「ブリタニア列王史」「アーサー王の死」からは、
「ブリタニア列王史」によるアーサー王の都
・シルチェスターかカールレオン
「アーサー王の死」によるアーサー王の都
・カールレオン
・カメロット(ウィンチェスター)
・ロンドン
・カーライル
に移っていった。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
※参考記事
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