開祖:キネダ・アプ・エダン(右)
(19.11.10更新)
現在のイギリスの王室は11世紀にはじまり約950年続いています。しかし、よく見てみると、イングランド王室、スコットランド王室、ウェールズ王室いずれとも関わりがあります。
今回は、それぞれの王室がいつから始まったのかを概略を説明し、特に最も歴史の長い、ウェールズの王室について、起源をお話いたします。
イギリス王室の始まり
イングランドの王室のはじまり
イギリス王室はいつからあるのでしょうか?
現在のイギリス王室のはじまりは、イングランド王室にさかのぼり、1066年にイングランドを征服したノルマン人のギョーム2世が始めたノルマン朝である、とされています。
※フランスのノルマンディー公だったギョーム2世はイングランド王ハロルド2世を倒し、ウィリアム1世としてイングランド王となりました。
👉参考記事:
イングランドの征服王と呼ばれたウィリアム1世のカリスマ性の秘訣
ウィリアム1世が始めたノルマン朝より前は、アングロ・サクソン族がイングランドを統治していました。アングロ・サクソン七王国の1国であるウェセックスのエグバート王が、825年に七王国を支配下におさめ初めてイングランド王となりました。
この時、イングランド君主が始まったとされています。
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スコットランドの王室の始まり
スコットランド王国は、スコット族(アイルランド)からやってきたダルリアダ王国と、ピクト族(スコットランドの北部)のアルバ王国(以前はピクトランド)、さらにブリタニアの一部(スコットランドの南部)の3つが合わさっています。
843年ダル・リアダ王国のケネス1世が、ダル・リアダ王国とアルバ王国を統一して、スコットランド王国が成立しました。このケネス1世からスコットランド王室が始まっています。
👉参考記事
ウェールズ王室の始まり
スコットランド付近の猛者
ウェールズの王室は、イングランドよりもずっと前から始まっていました。その起源は5世紀初めにまで遡ります。
現在のスコットランドに住んでた、キネダという人物がウェールズ王室を始めました。そのエピソードをご紹介します。
キネダのイメージ写真:BBCより
BBC Wales – History – Themes – Cunedda ap Edern
4世紀終わりから5世紀初めにかけてのブリタニアは、数百年にわたるローマ帝国の支配下の終わり頃であり、ブリトン人たちはローマ軍の指導のもと辺境の警備についていました。
※ブリトン人はケルト系民族
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現在のスコットランドのエジンバラ付近にあった、ブリタニアの小国であるマナウ・ゴドッディン(Manaw Gododdin、地図中ではGoutodin)では、キネダ・アプ・エダン(キネダと呼びます)が先祖代々から受け継いで、首長を務めていました。
キネダも成長してからは祖父や父と同じように、マナウ・ゴドッディンを自治しながら、北からやってくるピクト族やヴァイキング、アイルランドからやってくるスコット族の侵入を防ぐ戦いをしていました。
キネダは強力な要塞を作りピクト族やスコット族、ヴァイキングなどの攻撃をことごとく退けて壊滅に追い込み、猛者ぶりを世に広めていたと言われています。
※キネダが外敵侵入の警備をしていたと考えられる、アントニヌスの城壁とハドリアヌス城壁付近(地図中の水色の領域)
ところが、410年にローマ帝国軍がブリタニアから撤退してから、事態は大きく変わってきました。
外敵のピクト族やスコット族の侵略に対して、ローマ軍無しで戦わなければならなくなったのです。
ウェールズの原形となる国を建国
当時の、ブリタニアは北部と南部に分かれていて、南部のヴォーティガン(Vortigern、拠点は地図中のPAGENES)が、ブリタニア全体の司令官についており、最も権力を握っていました。ヴォーティガンは西から攻めてくるスコット族に手を焼いており、ローマ軍に援軍を要請しましたが断られ、窮地に立たされていました。
そのヴォーティガンから、南部ブリタニアの海岸(現在のウェールズ)に攻めてくるスコット族を追い払ってほしいと、キネダに要請が来ます(来たと考えられます)。
440年頃、キネダは50~60才の頃になります。
そこで、キネダは人生の大きな決断に出ました。
自分の8人の子供と1人の孫を全員連れて、スコットランドからウェールズ北部に移住したと歴史書には書かれています。
もちろん、これまで持っていた北部ブリタニアの領土や地位は全部放棄して、ヴォーティガンから要請があったスコット族と戦う任務についたようです。
※キネダの祖母はウェールズ出身。父方の祖先も1世紀中頃までブリタニア南部のウェールズ近くに住んでおり、ローマ帝国がブリタニアを征服したときに北部に追いやられたと考えられている。(キネダの父系の祖先は、カラタクス王と考えられる)
👉ヴォーティガンに関する記事
映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?
ウェールズ付近はアイルランドからやってくるスコット族の侵略に長年苦しんでいました。当時、ウェールズ南部や北部の海岸にはスコット族が居住地が数多くみられていました。
※アイルランドに住む人々をスコット族と呼び(のちにアイリッシュと呼ばれるようになった)、スコット族はブリテン島の北部に攻め込み国を作ったのでスコットランドと呼ばれるようになりました。
キネダと息子たちは、ウェールズの北部から南部まで侵略していたスコット族を徹底的に攻めて壊滅させ、ウェールズから撤退させることに成功しました。そして、スコット族を追い払ったキネダは、その地に国を作りました(現在の北部ウェールズ)。
最も北部をグウィネズ(Gwynedd)、南部をケレディギオン(Ceredigion)と呼びます。キネダはその領土を分割し、8人の息子と一人の孫に分け与えました。
これらの国の名前は、息子たちの名前に因んでいるといわれ、現在も多くの名前が地名として残っています。
これが、現在のウェールズの原形となる国の始まりであり、ウェールズ王室の始まりでもありました。
地図中で1~8と11になります。
テューダー朝に広がるウェールズ王室の血筋
440年頃に、キネダが始めたウェールズ王室はその後大いに繁栄し、多くのウェールズ王たちを輩出しました。
1282年に当時のプリンス・オブ・ウェールズであるラウェリン・ザ・ラスト王が、イングランド王エドワード2世に敗れて、ウェールズが征服されるまで、キネダの子孫がウェールズを統治し続けました。
その後は、急速に王室の血筋は縮小し、15世紀初めに、最後のウェールズのプリンス、オウァイン・グリンドゥールが反乱を起こし鎮圧されてからは、ウェールズ王室は姿を消しました。
しかし、ウェールズ王室の貴族テューダー・ヘンの子孫が辛うじて血筋を残し、直系のヘンリー・テューダーが、ヘンリー7世としてイングランド王になりました。
テューダーの血筋はイングランドのテューダー朝を作り、ヘンリー7世の血筋は現在のイギリス王室まで至っているのです。
👉ウェールズの王室がイングランド王室に及ぼす影響について
※ウェールズの王室一覧(英語)
Kings of Wales family trees – Wikipedia
👉ご参考に:キネダに関する記事
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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